ガヤガヤと騒がしい夕刻、定時を過ぎた海軍本部。今日も平和を守れた、と、お役所仕事ではないがまぁ、区切りをつけて終了した海兵ら。さぁ今日はどこぞで飲むか、やらあそこのメシは美味いなどと口々に言い歩き去っていくのがの執務室からも聞こえた。
今日分の仕事はしっかりと終えたのだけれど、性分、ちょうど今手に、持っているこの一枚は今やってしまおうとはまだペンを置いていない。鐘が鳴ると同時にひょいっと職分を放棄してとっととトンズラこくどこぞの大将とは大違いの生真面目さ。カリカリ、カリカリ、と、滑らせる音の良いリズム。次の航海、というか訓練時での積み荷の発注リストである。最終確認はの上司が行うのだが、その前に不備がないかを念入りに調べ、足らぬものを加えていく。食料、備品、などなど。一週間ほど、新兵らの演習としての意味の強い者。一等航海士や優れた船医なども乗船するのだけれど、熟練者が三割に対して、残りは全て「新人」とまだ呼べる域にいる者たちでの航海。失敗、というか、不安な要素など残してはならぬと、普段以上に慎重になる。
左手で紙を押さえ書類に目を落としていれば、ふさりと耳にかけた髪が落ちる。それを時折かけなおし、時にははらい、一枚、あぁ、そうだこれも、と、処理をしていくうちに、夕日がすっかり、沈んで夜になってしまった。それだって気付いたのは、視界が随分見え辛くなった、と、そう思ったからで、明るささえ変わらなければどれほどまで続けていたのか知れぬもの。
、やっと顔を上げて曇りガラスの向こう、真っ暗になった外を見て「あ」と、小さく、彼女にしては妙に間の抜けた声を漏らした。
「あまり長く続けるつもりはなかったのですが……」
気付けばもうこんな時間。壁にかけてある時計を眺め眉をしかめる。別段予定のある身ではないのだ。何が困ることもない。が、私室を訪ねる者がない身、とは言い切れぬ。同じ歳の海兵や、現在の上司、それにひょこひょこと犬の仔か何かのようにの後を付いてまわる幼い子供。三者三様ではあるけれど、が部屋にいないとしても「暫くすれば戻るかも」と待ちぼうけ、の可能性もある。トントン、と、いつの間にか積み重ねているほど溜まっていた処理済の書類を整えて立ち上がる。少し暗くなった室内。手元の明りは自動的についていたけれど、そういえば室内も随分と暗くなっていた。
冬島、ではないにしても海軍本部のあるこの島も、昨今随分と寒くなってきた。本部の准尉である。本来なら例の“恐怖の正義☆コート”(と、呼んで笑ったのは赤い髪の子供と、冷えた能力の大将)を羽織るに値する地位である。が、生憎は着るつもりも予定もない。壁のフックにかけていた黒地に白い花の刺繍の入ったロングコートを取って袖を通す。
ガチャリ、と、扉が開いたのは同時だった。
「ドレーク中佐?」
「……ここにいたのか」
いる、と思っていたわけではないらしい。僅かに驚いたような顔。の上司、ディエス・ドレーク中佐。普段どおりのきっちりとした格好は定時を過ぎても変わらぬもの。中佐ともなればそうなのだろうかと、未だ海軍本部の将校らの「こだわり」の理解できぬ、はて、とは思うが口に出すことはなく、上官への礼を取る。
「何かご用でしょうか」
「……頼みがあるのだが」
「中佐の頼みとあらば、何事でも」
普段きびきびと指示を出し真っ直ぐ背を伸ばし前に進む人。元は青雉の管轄下の所属であったを暫く前に「ごり押し」で自分の下へ移動させた人。尉官クラスからの所属の移動は滅多なことでは通らぬ異例だと、未だに海軍本部でも語り草。一介の海兵であったの名は一躍知れることとなった。その一件、別名「赤犬VS青雉」と物騒な名で残っている。真実はドレークの「ごり押し」かなりの無茶での人事だったが、ただの中佐如きで異例を作れることはなく、周囲を納得させるためとして「赤犬が青雉のところのという海兵を見込んで引き抜いてきた」と、それが事実として残っているのだが、は知っている。それほどドレークが無理をして、無謀なことを上に掛け合い、己を引き取ってくれたのか、を。
その、恩もあり、そしてまた敬意も抱く上官より、頼られる、と言うのは嬉しいもの。躊躇うように出された言葉に即座に答えたのは己の身から溢れる光栄、喜びを抑えきれぬ、些か性急なものだったが、不自然さはなかった。きりっと居住まいを正して次の言葉を待つのだけれど、しかし、一向に続く言葉はない。
「ドレーク中佐?」
ガレーラ社員旅行の下見に行こう
別名:「ドレーク中佐いじめの旅その1」
ことの発端は半日前。大将赤犬から「護衛」と言う名の「子守」を仰せつかっているディエス・ドレーク中佐。最低でも准将からでなければ本来任せられぬはずの「海の魔女」のお守。任命されてから医務室にいく回数の増えたことは周囲の同情を誘いこそすれ、といって替わると申し出る将校は皆無。と、まぁそれはどうでもいいのだけれど。そのディエス中佐、今日も今日とて散々な目にあっていた。行くな、と言った場所に行くのは当たり前。やるな、と言ったことをし、止めてくれと必死に頼んだことを平然とやらかす。今日はベカパンクと電気うなぎの電気量は電気うさぎとどっちか強いかと、そういう知的好奇心を満たす大義名分を、なぜかそこらの海兵で試した。偶然通りかかったモモンガ少将やら、防げぬの悪質な悪戯に本気で激怒していたが、その怒りはに申し立てしたところで全くの無意味だからと、なぜだか全部ドレークにかかってきた。所詮ただの中佐。少将たちに睨まれて、一層胃の痛くなる思い。それでもは「思ったよりつまらなかった」と、容赦ない。
「お、お前は……!!!」
がみがみと叱られてすっかりやられた胃をきりきりと抑えながらドレーク、けろっとした顔でデッキブラシに跨りフワフワ浮かんでいるを見上げ言葉に詰まった。
「なぜそう、面倒ごとばかり起こすんだ……!」
「ディエス中佐が困ってるのを見るのがすきだから」
泣いていいですか。
ぐっと、ドレークはただでさえ険しい顔を一層険しくし、下を向く。なんで、なぜ、こんなことになっているのか。の面倒、というか、世話が許されるのは准将からと、そのはずなのに。何を間違えたのか、まだ中佐でしかないはずの自分、しっかり周囲に「大将赤犬のところの子供の玩具」と認識されている。せめて世話役とか、そういうのだったらまだ、いや、それでも凹むが。
「お願いですから、ご自身のお立場をご理解ください。行動を、自重してください」
しかし、己の上司である大将赤犬から仰せつかった任務は任務。少なくともが本部にいて、ドレークに急な遠征、任務のない場合はの監視をすることと、それが、正義を守ることだと、そう知らされている。正直がいなくなってくれれば自分の平和は守られるのだが、それは口に出しても聞き入れられることはないだろう。中佐なんだから世界のために犠牲になれとか、そういうことを言われたら海兵辞めたくなる。
溜息一つで何とかこの理不尽さをなかったことにしてしまおうと息を吐き、きっちりと姿勢を正して進言してみる。この子供に階級などないのだけれど、それでも大将の保護を受け本部を自由に出歩くことを許されている事実、ドレークはあくまで「海兵」としての対応をしようと試みている。
改まった言葉遣いもその一つ、しかしはきょとん、と、顔を幼くしてから、目を瞬かせる。
「自重してるよ?」
どの辺が?とは聞き返さない。
「……では今以上に」
と、それだけ答えて黙る。子供、幼い子供。海軍本部の中佐だから、というだけではない。ドレークは北の出身、海の魔女という、その名を知っている。不思議な能力を扱うことも、知っている。そして嘘が使えぬことも、知っていた。
が云う言葉に嘘はない。本人が「自重」しているというのなら、それは心からのこと。それを否定すればまた面倒なことをされると、わかっている。ドレークは言葉を飲み込んで、搾り出すようにそれだけ言った。
「何がダメなの?」
「少将らで遊ぶのをおやめください。彼らは、」
「なあに」
「―――大将赤犬が困ります」
ドレークは言いかけた言葉を途中で飲み込み、別の言葉を吐いた。向けられた丸い、蒼い目。子供の眼。それでも年老いた老婆のような、荒んだ色をしている。
はじっと考え、そしてドレークの考えを読み取るつもりでもあるように瞳を見つめて、そして、ふいっと視線を外した。
「つまんない」
「気を紛らわせられることがあれば、付き合います」
「中佐が遊んでくれたってつまんないよ。中佐で遊べたらいいのにねぇ」
鬼畜、外道なことをつまらなさそうに言われてもドレークは落ち込む以外の手段がない。はふぅっとわざとらしく溜息を吐き、デッキブラシから降りた。とん、と軽い足音。それで少し考えるように腕を組んだ。
「そうだ、ねぇ。うん、中佐、なんでも付き合ってくれるんだよね」
「なんでも、とういう確かなお約束はできかねますが。善処はいたします」
なんでも、なんて確約した日にはどうなるか知れぬ。それくらいの危機感は持っているドレーク、釘を刺しておくことも忘れない。がにへらっと、それはもう、楽しそうに、笑った。
「ちょっと待、」
「男が一度言った言葉を撤回するんじゃあないよ。ふふふ、よく言った。よく言ってくれたねぇ、ディエス・ドレーク中佐」
果てしなく嫌な予感がして、ドレーク、今の言葉を取り消そうとしたのだが、その前にの容赦ない、牽制。いや、ちょっと待て!よく言ってくれた、と、そういう。まさか。
「か、確信犯か!!!?」
随分長い時間を生きる魔女。手練手管に長けているのだと、そう、話していたのはどこぞの公爵。嘘は吐けぬが、本当のことを言う必要はないと知っている、生き物。心底楽しそう、嬉しそうににやりと笑い、ドレークに突きつける、一冊の冊子。
「……?」
てっきり何か無理難題でも突きつけられるかと身構えていたのに、その行動。ドレークは些か毒気を抜かれ、小さな子供の差し出した冊子に目を落とし、顔を引きつらせた。
「念のために聞くが、これは」
「見ての通りのものだよ」
「……拒否権は」
「まさか、そんなもの君にあるとか思ってるの……?」
一応聞いてみたのだが、が、あんまりにも「何言ってるの?」と気の毒な人間でも見るように眉を顰めてのたまう。本気で泣きそうになったドレーク、それでも冊子は受け取った。その、どこかで見たことのあるマークを表紙につけた「旅のしおり」と、でかでか書かれた、冊子。
受け取ればが笑った。そりゃあもう、楽しそう。ドレークの身のうちの悪魔が喜ぶくらい、である。
「ガレーラの職人の名前があるのですが」
「そりゃあるよ、ガレーラの社員旅行の下見ツアーだもん」
「ロブ・ルッチも入っていますが」
「あ、そうそう、知らないフリしてね。パンダの長官が怒るから」
「私は海兵なのですが」
「一般市民の役に立つのも立派な仕事だと思う」
「しかし何故ガレーラの、」
「ぐだぐだぬかすな」
言い募るドレークをぴしゃり、と切り捨てて、はどこからかもう一冊、「旅のしおり」を取り出してドレークに押し付ける。
「楽しいよ、楽しいじゃあないか。ねぇ、ディエス中佐。ガレーラの社員旅行、どこ行こうかってアイスバーグが悩んでるんだ。手伝ってあげるのが友達だよね」
と、ガレーラの社長アイスバーグ。何か縁があるらしいと、そういう話はドレークも聞いている。だが、しかし、なぜ、なぜ、自分まで。
「温泉旅行はいいよ。多分肩こりも治るし、中佐、胃が悪いんでしょう?ゆっくり温泉つかって日々のストレスを解消しなよ」
その原因がなぜそんなことを白々というのか。気遣い、ではない、確信犯である。たとえ本気でドレークの身を気遣っての処置であっても(万に一つもそれはないが)感謝を覚える必要はない。絶対にない。
「お気遣いは痛み入りますが」
押し付けられた二冊を返そうとするドレークからは器用にひょいっと離れ、いつのまにか消えていたデッキブラシを腕を振って握りなおすと、またふわり、と跨いで浮かぶ。
「も誘ってね」
「っ!!?ま、待て!!!まで巻き込む気か!!?」
さらり、との口から出されたよく知る人の名に、ドレークの顔色が変わる。、、レルヴェ・。の最近の「気に入り」というそのひと。ドレークの部下である、准尉だ。腕も立つ女性だが、それでもまだ、の悪意に侵されればひとたまりもない。容赦を知らぬわけではないが、幼い子供、ドレークは出来るだけをに近づけたくなかった。慌てての足を掴めば、が眉を顰める。
「ぼくはアイスバーグくんとがいたら嬉しいし、楽しいよ。両手に花?」
「お前のことはどうでもいい、彼女を巻き込むことは許さん」
「言い切った、なぁに、中佐、ぼくに意見するとか、ないよね。君に拒否権、っていうか、人権ないよね」
その手をげしっと、蹴って払って、、颯爽といい、颯爽と、去っていく、その姿。魔女じゃなくて悪魔なんじゃないかと心底思うもの。ドレークはがっくりと肩を落とした。
溜息一つでやり過ごせる程度など、とっくに超えている。
だが諦めるわけにはいかない。よりにもよって、との「温泉旅行」にを連れて行くなど。しかも「誘え」と言ってきた。自分が、あくまでもドレークに巻き込ませようとする、その周到さ。しかし一日経ってもドレークがを誘わぬようであればが直々に彼女を誘うだろう。を可愛がっているあの心優しい人は、ドレークが行くのなら付いてくる。それも仕事の一つと割り切って、付いてきてくれるだろう。
「……」
ドレーク、暫く沈黙し、一度目を伏せていろんな感情をやり過ごす。
とりあえず次にいくべき場所は決まっていた。幸いまだ日も高く、がデッキブラシでどこかへ行ったのなら、まだ、猶予はある。
「まずは、大将赤犬のところだな……」
Next
とりあえずここまで。いやぁ、楽しかったです。
とりあえず薔薇姫終わらせたら続きで。
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