普段から騒々しさなど縁もないひと、静かに座り込むその背に珍しさなどはないのだけれど、だけれど、それでも、なんだかその背、影がひっそり薄くなったような、軽さ。それほど付き合いが長いとは言い切れぬ身なれど、それでも思えることはいくつかあって、、ステップ踏んでどん、と、後ろから抱きつこうとしていた勢いそっと殺し、立ち止まる。午後の中庭、きらきら光る太陽を受けて煌く金色の髪、少々痛んだ毛の先が光の残像のように見えて美しい、はずなのに。
(…震える、細い背。どうしようもない、なんて、しない)
誰にも傷が付かないように
ドゴォン、と、爆発音。進路の丁度僅か先。あと少し場所がずれていたのなら、この船盛大に吹き飛んだ、という危うきもの。何の外敵の姿も認められなかっただけに驚くのは物見だけではない。甲板に立っていたクルー、物音を聞きつけてわらわらと出てくるクルー、その中に船の責任者、船長、キャプテン、全身黒尽くめの仮面の男、ディエス・ドレークの姿があった。
「な、なんだ!?」
「敵襲か……!?一体、どこから…!!」
口々に混乱の言葉を口に出し、それでも各自緊急時の配置に付くのはよく統率のとれたこと。なにが起こるかわからぬグランドラインで戸惑う時間の無意味さは乗員よくよく承知していること。
船長、ドレークも然り。状況を把握しようと警戒態勢、ぱちん、とグローブの金具を外して構える、が、その、背後から間延びした明るい声。
「船に罪はないからあてない。感謝してね、ディエス少将」
いつ背後に回られたのか、いや、いつ、床に足をつけたのかも解らぬ。ばっと、振り返ればよく知る幼い姿。いつものひらひらとしたワンピースではなく、ドレーク自身滅多にお目にかかることのなかった、「本来の」格好という、真っ白い魔術師のフードを被った、の姿。
「ドレーク船長!!!!」
敵の姿の確認に、背の高い船員が声を上げた。ドレークは腰に差した剣を抜き、の繰り出したデッキブラシの一撃をとめる。何の悪意も帯びていない、ただの打撃に近いもの。
「お前たちは下がっていろ、この生き物に手を出すな……!!!」
受け止めるには容易いもの。容易すぎる。何の力もない、非力な生き物の、ただ、掃除道具を振り下ろしたに過ぎぬ、暴力と呼ぶのもおこがましい、もの。受け止めて、ドレークは己の二本目、斧のような、剣のような、棒のような、奇抜な武器を構えた。
デッキブラシの先をドレークの剣に抑えられたまま、器用にその柄を左前に押し込んで繰り出してきた二撃目を、それで押さえ込む。がちり、と、金属音がした。何だ、と思うより先に強化された嗅覚が異変を本能的に悟る。何かさらさらとした黒い、粉。偶然(いや、恐らくはによって故意に)合わせられたドレークの二本の武器から散った火花が、その粉に引火する。
「っ!!!火薬か!!!」
身を大きく後ろに引き、マントで炎を遮る。僅かな火薬だったが、丈夫な布で出来ているはずのドレークのマントを、容易く焼く。が、全焼、は免れた。ばさりと振ればその緑の炎は消えた。悪意、そのものいう、の業火。
「突然なんだ」
本来ならば七日間は消えぬ炎。罪悪の証と、そう知らされている炎が容易く消えたということは、に殺意はないと、そういうこと。それなりの付き合いで多少は承知している、ドレーク、ばさり、ばさっとマントをふり、を見詰めた。真っ赤に燃えるような髪に、少女特有の丸みを帯びた顔、その瞳の色は、赤い。赤。赤く、なっている。ドレークは帽子の影に隠れた瞳を僅かに見開いた。
「俺を殺しに来たのか。海の魔女」
殺意は確かに感じられぬ。だが、談笑した次の瞬間に悪意を膨らませて容易く相手の命を奪う生き物、それがこの海の魔女。油断、などできるほどドレークは彼女を知らぬわけではない。寧ろ、来るだろうというぼんやりとした確認、に似た、予感、すらあった。来る、だろう。いつか、いつ、か、は知らぬが、それでも、は、海賊となった己の前に現れる、と。そう。
「殺されてもしようのないこと、したって自覚ある?」
じぃっとドレークを見詰める大きな赤い目。幼い子供の口調、眼差し、脣。それでも、その声の音だけは何か、底知れぬものを秘めている。ドレークは両足に力を込めた。
「俺は海賊になった。大将赤犬と敵対した。お前の悪意は俺を許さないだろう」
少し前、時間にすればまだ半年、ドレークは長年勤めた正義を捨てた。海兵を辞し、よりにもよって、海の屑、海賊風情に成り下がった。その「堕ちた」と周囲に嘆かれる道理、批判は承知している。
“赤旗”X・ドレーク、と、それが己の今の名。
何故か、と、それをは問うことはない。そんなこと、と、恐らくこの生き物は一笑する。興味もない、たかがドレーク、一人の人間の造反程度、と、そういう生き物だ。だが、しかし、しかし、ドレークは知っているのだ。のこと、世界の正義のこと、その、殆どを承知している。その上で、ドレークは「赤犬を裏切った」のだ。
ドレーク自身、うぬぼれではなく純粋な事実として承知している。最高戦力、海軍大将赤犬はドレーク少将を信頼していた。随分と、信用していた。子飼い、でこそなかったが、目をかけられていた。だからこそ、少将の地位に今の若さで上がれたものと、その自覚もある。
その赤犬の「信頼」を切り捨てた自分を、は許しはしない。傍目にはけしてそうは見えぬ、と赤犬、その双方、見ている周囲が不憫に思うほどに、互いを想いあっている。実際のところドレークの造反で赤犬が何か思ったか、は別として、は、サカズキを裏切ったドレークを、許さないだろう。そう、知っていた。
「何を寝惚けたことを言ってるんだ」
ばちん、と、の左足が甲板を叩き、板に穴が開く。けり破った類のものではない。その空間、物体のみの消去。ビュウゥと、風が吹いた。同時にドレークの頬に一筋の傷。つぅっと、頬を伝う血。まるで見当たらなかった、の殺意が膨れ上がっていくのが、はっきり判った。
「思い当たらないのならぼくが教えてやる。この、馬鹿。をどうして置いてった」
言葉を言い切り、眦がきつく上がった。の左手がドレークに向けられる。返答を誤まれば即刻首でも飛ばされかねぬもの。状況を見守っていた周囲がどよめきだった。ドレーク海賊団、その、半数以上がドレークと同じく『元海兵』だ。海の魔女の、その脅威をよく知っている。
「…そのこと、か」
しかし、その殺意に脅え覚えることはドレークにはない。脅し、で殺意を向けるようなではなく、恐らく本気のもの、ではあろうけれど。
溜息一つ、ドレークはかちゃり、と、剣を収めた。
「お前にとやかく言われることではない」
「煩い、余計なお世話だ」
んべっ、と、は舌を出す。しかしそれはドレークのセリフだ。、、レルヴェ・。ドレークの部下だった、少女。いや、もう、女性か。剣の腕の良い、しかし、それでもドレークがこれから行く道では死ぬだろう、女性。
将校時代、X・ドレーク少将の傍らには彼女ありと、そう周囲に知られていた女性海兵。ドレークが海兵を辞した時、共に行くと、そう言ってくれた。なぜ、と、彼女はそれを、知らぬのに。
「が泣いてるんだよ、この馬鹿男。置いていくなんて、ひどい」
の目が一層赤くなった。この少女のふりした随分と時間の経過のある生き物、ドレークの傍にいるをことのほか「気に入って」いた。それがどういう種類の好意なのかドレークはわからなかったが、少なくとも「お気に入り」といった程度のものではなかったと思う。
それ、では。それでは、。この、悪意の魔女とさえ言われることのあるこの生き物は、まさかその為に態々ここへ来たのかと、ドレークは思い当たり、ばかな、と、一蹴したくなる。
先ほども言ったとおり、に何か言われる覚えは一切ない。これは自分と、の問題だ。
「非道と、それをお前に責められたところで俺がどうこうすることはないぞ」
「今すぐぼくと海軍に戻るかを仲間に入れるかどっちか選べ」
ドレークの言葉など欠片も聞き入れぬ、、ドン、と腕を組んで目を細めた。しかしその提案、どちらも了承することなど、ドレークには出来ない。単純な言葉を、ドレークがあっさり吐けるのなら、余計なお世話、である。
「断る」
「なんで?」
「それをお前に話しても理解しないだろう」
絶対に、には理解できない。できるはずがないと、ドレークは知っている。この生き物は随分と長い時間を生きているが、それでも子供だ。幼い子供。何も変わることがなく、未だに知らぬのだ。愛と、そういうものを、知らない。
「が泣いてたんだ。かわいそう、キミが戻ってくれるか迎えにいくかしてくれたらきっと笑ってくれる。ぼく、には笑っててほしいんだ」
「俺が何かせずとも、ならば大丈夫だ」
「それを君が決めるな」
なら、それをが判断することだってできぬはずだとドレークは言葉には出さず視線で訴えた。乱暴な言動はドレークの好むところではない。が、一言言えるのなら、言っただろう。
何も知らぬのに、口を挟むな、と。
脳裏に描く、もう暫く、そして永久に会わぬだろうひと。絶世の美女、ではない。それでも内なる美しさの溢れ、きらきらと輝いていた。ドレークはを見詰めることが好きだった。敏い彼女、あまり見ていれば気付いてしまうので、あまりじっと長く見ることはあまりできなかったが。
静かな横顔。微笑む時の脣の動き、目に浮かぶ感情の色、長い睫毛が白い肌に影を落とす様の全てを、ドレークは鮮明に、脳裏に描くことが出来る。高すぎず、低すぎぬ落ち着いた声が己の名を呼ぶその瞬間、どれほど愛しさを覚えたことか。
「彼女はまだ若く、そして美しい。いずれ俺を忘れて、良い相手にめぐり合うだろう」
その一切を、彼女の記憶の全てを、ドレークは捨てるつもりはない。想いを海に沈めてなかったことになど、するつもりは毛頭ない。だが、しかし、だが、しかし。それをに求めはしない。
凛とした、強い女性だ。弱くとも、それでも、立てぬわけではない。己がいなくなってもやってゆける。心配が全くない、ということはないけれど、彼女の傍にはドレークも信頼する海兵がいる。直属の部下、というわけではないが、青雉とてレルヴェ少将のことがあってからはに目をかけている。そしてがを「気に入って」いる限り、赤犬がを死なせはしないだろう。
「本気で、言ってる?」
「あぁ」
自分は彼女に酷い仕打ちをした。その自覚がある。だが、手を取ることはできなかった。それは、自分の身勝手さ。いつか、彼女が、が誰か他の男のものとなったとて、自分ではない者の隣で微笑んでいたとて、それは、しようのないこと。
想いは全て己の中に閉じ込めて、ドレークは、“赤旗”X・ドレークは反旗を翻す海賊となる。その、決意、などにどうこうと言われて揺らぐものではない。そんな程度で、彼女に会いに行ける、わけがない。
「ここまで馬鹿だったなんて、ぼく、きみを見縊っていたよ」
がつん、と、のデッキブラシがドレークの頭を殴った。魔女の本気、たかだか数十年生きただけのドレークではどうしようもない一撃。それでも脳に異常が出ることもなかったのは、この生き物が加減に加減を銜えたからだ。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿!!!!のこと、好きなくせに!なんでそんなこと言えるんだよ!!」
それでも、今の一撃は十分効いた。ドレークは肩膝を突き、それでももう一度武器を取る気にはならない。子供の、勘しゃくだ。思い通りにいかぬことを、わがままを、通そうとする子供の、癇癪。
「愛しているからだ」
その、今にも泣き出しそうな目を睨み、ドレークは呟く。判らぬだろう。には、けして、判るはずのない、こと。
ぴたり、と、の動きが止まった。乱暴に懐から出した瓶を床に叩きつけようとした体勢のまま、器用に目だけをドレークに向ける。
「好きなら、どうして連れて行かないの」
「俺は死ぬだろう」
海軍を裏切った。全てを知っていて、裏切った。正義を捨てた。目的を、決意を果たすため。果たそう、という強い意思はある。だが、果たす過程でどれほどの困難が待ち受けているのか、承知している。
「これから先、俺の道は険しく、非道のものとなる。彼女を、を、共に行かせる傲慢さなど、俺にはない」
は知らない。ドレークも、その事に関してはにそれらしいことをほのめかしたことすらなかった。何も、関わらせたくはない。
「は、花の中にいるのが似合う。血と髑髏で築くような道を歩かせたくはない」
「それはキミのエゴだよ。は、」
「俺と死ぬだろう。俺を守り、誇って死ぬ。……それがわかるからだ」
強いひと、うつくしい、ひと。彼女の身からあふれ出る光は、己の傍らにいるときに一層輝きを増していた。知らぬドレークではない。悟らぬほど、彼女を知らぬわけではない。知っている。十分に、過ぎるほど、いつも、いつも、彼女のことを見てきた。考えてきたのだ!!!
「じゃあ死ねばいいだろ!それがの幸福なら、お前を守って死なせてやれよ!!!」
が吼えた。歯をむき出しにして、ドレークにつかみかかる。幼い子供に、題の大人が詰め寄られているのは、奇妙なものだ。だがそれをぼんやり思うゆとりが、ドレークにはなかった。ぎりっと、奥歯を噛み締めて、逆にの首を掴む。赤い宝石の付いたチョーカーの下には、赤い薔薇がある。
「お前たちと同じになど、思えるわけがないだろう!!!!」
の怒声に負けぬ、ドレークの本気の怒気。ぐっと、半分獣化した手、尖った爪がの細い首に食い込んだ。
知っている。気付いている。赤犬と、この少女の絆。いつか赤犬が死ぬ時は、も一緒に死ぬと、死なぬ少女を赤犬が殺すことによって成就される『願い』その、愛の形。
そんなものが愛だったとしても、ドレークは、そうは思えぬ。
声を荒げて怒鳴る。普段の彼、らしからぬこと。びくり、と脅え覚えることなどないが、それでもがぴくん、と、表情を固めた。
「愛している。何よりも、誰よりも、私の全てをかけて守りたいと、そこまで願うただ一人の女性を、死ぬと解る航海に連れ行く男がどこにいる!!!」
知っている、わかって、いる。あぁ、判っている。己は死ぬだろう。海賊に殺されるか、海兵に殺されるか、それとも何か別のものか。だが、もう安住などないこと、承知のこと。貫くと決めた己の決意がある。揺らげぬ思いがある。
意思を果たせるのなら、それで死ぬとしても構わない。歴史に石を投げ込むことが僅かでも出来るのならば、構わない。が、それは、それは、ドレークの意思だ。を巻き込むつもりは、ない。巻き込みたくは、ないのだ。
「俺が死ねと、死地にやれば彼女は躊躇わずに身を投げ出すだろう!俺を守り、実代わりになって死ぬことすら厭わないだろう!!!それを、そんなことを、愛した女性に望む男がどこにいる!!!!」
自分が海兵を辞したときに、船員の殆どが付いていくと同じように海兵を辞した。当初ドレークはそれを止め、単身一人きりで旗揚げしようと本気で思っていた。それでも、彼らはドレークについてゆき、そしてドレークはそれを認めた。彼らの決意の固いこと、そして己と歩いてくれることを嬉しくすら、思った。困難を乗り切ろうと、彼らと語れたことは、ドレークの誇りであった。
だが、だが、彼女は、彼女だけは、駄目なのだ。
「お前と…!!!貴様と、あの男と同じ尺度で考えるな!!!死ねば終わりだ!!お前たちのように『次』になど、意味を見出せるわけがない!!!」
己の、全てはエゴである。判っている。知って、いる。彼女の気持ち、彼女の、想い。自分が彼女に生きて欲しいと思うものと同じであること。己の、これから先の茨の道を切り開いてくれようとする、己に目的を達成させようとしてくれるだろう、その、想い。わかって、いて。彼女がどれほどに己を想ってくれているのか、判っていて、それでも、ドレークは、を捨てたのだ。
「貴様などにわかるはずがない!!悪意の魔女!!!!」
「うん、そう。わかった」
なりふり構わず叫ぶ、その失態、それをドレークが気付く前に、がぽつり、と、呟いた。ぱしっとドレークの手を叩いて離させると、そのままひょいっと背中を向ける。
「もう、いい。もう、諦めた」
背を向けたまま、スタスタと海のほうへ向かい、甲板に放置していたデッキブラシを拾い上げる。いつもどおりの声、いつもどおりの、気配。ほっと、ドレークは息を吐いた。己が叫んだ言葉、思い出せばなにやら船員たちに聞かれるようなことではなかったのだが、それで、僅かでもが納得したのなら、いい。
手荒なまねをしてすまなかった、と、そう言おうとした瞬間。の手元が僅かに動いた。覚えのある動きに、咄嗟に真横に大きく飛ぶ。
「!!!?」
避けた、筈である。いや、完全に回避は不可能か。ドレークの左肩、まるで黄猿のレーザーでも受けたように、一閃の穴。傷口が焼け焦げている。ピカピカの実の能力、ではない。類似したもの、でもない。いくつあるか知れぬ魔女の「悪意」の一つ。高エネルギー焦点式超音波、ただのレーザーとはまず、格も威力も桁が違う。のソレは点での攻撃。完全なる科学の結晶なのだと、そうは聞いている。
デッキブラシを右手に構え、とかげの刺青をあらわにした、左の掌をひらひらとさせて、ドレークを見詰める。その目、魔女の月のように鋭利なもの。
「お前を連れ戻すことは諦めた。そんなに死にたいなら、ここで死ね。今、死ね、ぼくに殺されて、死んでしまえよ」
響く、仄暗い声。瞬時に視界が曇った。夜が、訪れた。先ほどまでは真昼だったというのに、その変化。ドレークは再び剣を抜いて構える。船員達にも最早傍観させておくには危険すぎる。の小さな身からあふれ出る、本気の殺意。
「コラコラ、止めなさいって、」
一瞬で緊迫した船内に間延びした声が通る。ぴしり、と、の片足が氷に絡まれて凍りつく。来る気配、忍び寄る空気の振動すら感じさせなかった、海軍本部最高戦力・青雉クザン、の仕業である。
「クザンくん、死にたかったんだ」
ピシリピシリ、との身が凍り付いていく。足元から上半身に向けて凍りが侵食していくのに、の顔には変化がない。邪魔をされた、という苛立ちすら浮かばない。平然としたと対象的に、がっくりと、膝を突いたのはクザンだった。
「あー…やっぱ、俺じゃあ無理か」
左肩を抑えて、いつもどおり、のんびりとした声で呟く。その肩からは血が噴出していた。何か鋭利な刀か何かで一太刀浴びせられたかのような。自然系の能力者にあるまじき「負傷」である。
当然、道理、だ。自然系の能力者は「海の魔女」に手出しが出来ない。出せば内なる悪魔に報復される。を傷つけたのと同じだけ、痛みを与えられる。
「大将がひとつ欠けたらサカズキが困るんだけど」
「そうだよねぇ、だったら、ここは引いてくれない?ほら、俺だってまだ死ぬには惜しいでしょ」
「うん、いいよ。帰ろう、この馬鹿の首を跳ねたらね」
の上半身が凍りつき、胸元まで氷の侵食が進んでいた。それでもが一言言葉を吐くたびに、クザンの体に傷が増える。氷の侵食が遅くなる。
「物騒なこと、しないの。駄目でしょ」
「どうして?海の、屑だよ。あぁ、これはそれ以下だね」
容赦ないの言葉。大将の登場に別の緊張を覚えていたドレークはそのあまりの暴言に眉を寄せる。何を言われても仕方のない身になったとはいえ、明らかに侮蔑を含んだ、幼い少女に言われるのは、思うこともある。
「駄目だよ」
「だから、どうして?」
「くんが悲しむよ」
それは駄目でしょう、と、そう諭すクザン。ドレークをが殺したら、は悲しむ、そんなことも、は判らない。
「平気だよ、この馬鹿男、もう戻る気もを向かえに行く気もないんだって。酷いじゃないか、非道じゃないか。ねぇ、可愛そうな話。が泣いてしまうよ」
「ドレーク少将、あ、元か……まぁ、なんでもいいけど。その、ドレークを殺してやったって、は喜ばないと思うんだけどねぇ」
「でも、それで仕舞いだよ。もう何も、を傷つける事実は生まれない。あとはただ「死んでしまった!」と嘆いて、偲べばいい」
銀のおぼんにドレークの首を乗せてあげる、と、楽しそうにいう。悪意の魔女。ドレークよりも酷いことをにして、もっともっと酷いことをして、それが、には「道理」になるのだと、そう、言う。
クザンは額に浮かんだ汗を拭い、ゆっくりと立ち上がった。危うい、とは思っていた。がに懐くこと。まずいだろう、とは、わかっていた。それでも、まさかここまでになるとは。
赤い月がぼんやりと上空に浮かんでいる。昼間だって月は本来見えているが、の呼んだ夜でその存在が明白になった。天体、月、太陽の光を受けてしか輝けぬもの。そして、この夜では存在を感じることも出来ない、同じように空にあるだろう星。光はこの夜には届かない。
「……やっぱ、俺はお前を止めるよ。」
「そう。君がいなくなったら寂しくなるね。それでもヒエヒエの実はちゃんと取り出して誰か中将に食べさせるから、何も問題はないね」
話しながら、クザンは力をなんとか強める。もうの身、顔の位置にまで氷が進んでいる。自分の心臓に悪魔が爪を立てるのが早いか、それとも。
「……ッ!!!!?」
がくん、と、の体が震えた。余裕のあった顔が苦痛にゆがみ、乱暴に振られた指が凍りを砕く。
「っ、ク、ザン!!!」
「あー、よし。よかった、効いたか?」
甲板に身を崩して倒れこむ。その首に巻きついている、紐。何のことはない、海の固形化した物、と言われている、石の仕込まれた紐。これをこっそり凍りの侵食に混ぜ込んだと、そういうだけだ。能力者の身は海に嫌われるが、その能力、自然の氷は、あくまで氷。できぬことではない。
は海に嫌われている。能力者ではないが、同じように海が凶器となる。そして海に抱かれている間は悪魔の声も届かない。
「やー、よかったよ、ホント。さすがにまだ死ぬには惜しいからねぇ」
どっかり、クザンはの体を抱き上げる。小さな子供。それでも、悪意に膨らめばクザンではどうすることも出来ない。最悪の場合を想定していなかったわけではないが、そうなった時は正直、お手上げだったのだ。をどうこうできるのは、この世でただ一人だけ。
「んで、そうそう、ドレーク少将」
「元です」
「あ、そうだった。まぁ、そんじゃ、敬語とか使わなくていいんじゃないの?」
「性分ですので」
まぁ、確かに。今更変えるほうが色々煩わしい、ということもあるだろう。この男は昔からこう、生真面目にすぎたとクザンはぼんやり思い出す。そして見下ろした、満身創痍、には程遠い、殆ど軽傷程度の海賊。を怒らせてこの程度なんて、全く、ずるい。自分は止めに入っただけで、半死半生だ。
「俺も、お前さんの造反には色々思うことあるのよねぇ、よくもうちの可愛いくんを泣かせやがったな、この野郎、とかさ」
「……」
クザンの脳裏に過ぎる、いつも決まった時間、中庭の椅子に腰掛けて俯いている彼女の細い背。のために赤犬が作らせた場所だから、滅多に人の通らぬ場所だから、誰かに見られることはそうないけれど。それでも、事情を知る者に、こちらが胸でも張り裂けそうな、何かを感じさせる、背。
「どっちかってーと、俺は今ここでお前を連行するか抹殺するかした方がいんだろうけど」
だらけきった態度、ぽりぽりと頭をかきながら言う。ドレークの顔に緊張が走った。確かに今、クザンは負傷しているとはいえ、それでもまず、ただの人間は自然系に傷すら付けることができない。
そしてドレークは能力者、ここでクザンが船を沈めればあっさりと、本当に容易く死ねる。その、程度。
「でも、ま、たかだか一億いくらの賞金首。態々俺がどうこうするっつーのも、ねぇ。この海で死ぬならそれも一つ、お前を殺すのは何も海兵だけじゃねぇだろうし」
「海賊を、見逃すと?」
「相手にする気がねぇって、そういうこった。赤旗・X・ドレーク船長」
モットーはだらけきった正義、ではあるが、それでひょうひょうと海賊を見逃せる立場ではないこと、クザンも承知している。口では見下してけなしたが、この男、ドレークは将来的に海軍の、世界の敵になると、そう確信はある。まぁ、志半ばであっさり死ぬ、というのもないわけではない、グランドラインではあるが。
「まぁ、ね、正直なところ、パン子ちゃんを抑えるのに必死だから」
とりあえず今は何もしやしないと、手をひらひらさせて主張すると、ドレークが頭を下げた。うん、良い男だなぁ、と、クザンは思う。には悪いし、も気の毒、とは思う。しかし、わかる。ドレークは、この男は、中々出来ぬことをした。良い男だ。
「一先ずは、礼を」
「いいって、次会ったら普通に容赦する気ねぇし。傍にくんがいても氷漬けにして海に投げ込むから」
出来れば大将たちには出会いたくないものです、と、真面目な声でドレークが言うのが、なんだかクザンにはおかしかった。それでも、この男がいずれ世界を相手にするのなら、それは避けられぬもの。クザンは、負けるつもりはなかったし、どうしたって、ドレークは大将3人に勝てるとは思わなかった。強いこと、が目的なのではないのだから、まぁ、構わないだろう。ドレーク、剣も使う能力者。特別、何かに長けている、ということはない。
「俺なんて優しいほうだろ。サカズキとか黄猿さんに比べれば」
ぽつり、ぽつりと軽口。それにドレークが、やはり生真面目に答える。何も変わらない。昔、あぁ、つい最近か。海軍本部にいたころと、何も変わらぬ、やりとり。それでもクザンは血だらけだったし、ドレークはもう正義のコートを着てはいなかった。
それが、どうしようもないことになる前に、どうこうしようとしたの必死さも、やっぱりクザンはわからないわけではないのだ。
(まぁ、皆が皆、幸せになれればいいのにねぇ)
Fin
ドレーク少将造反関係の妄想です。自分とこのヒロインでやるよりも物凄く楽しかったんですが・・!!
ありがとうございました!!!
|