・話の都合上、ある人物や名称は××と表記しています。





駆ける駆ける、地を蹴る、蹴る。天に轟くように地響きばかりが続いて行く。逃れようとしているのだと、色取り取りの鳥々が木々の隙間から窺いながらの優美もない。囁く囀り鳥の止まり木すらもはやなく。燃えて行く。何もかもが燃やされて灰になり、跡形も無く消え去っていこうとしている。
王宮の本殿から僅かばかり離れた魔術師の塔は、組み立てられてまだ五十年と立っていないのに、根から燃やされ煙が立ち込め、塔の内部を煤だらけにしてゆく。下には炎が回っているために、もはや逃れることは出来そうにない。窓の外から見下ろせる××王国の風景は失われ、林や森が、容赦なく燃えつくされていく凄惨な光景、連合国の軍人たちによって非情に切り殺されていく様、断末魔の悲鳴がただ、目下に広がっているのみだ。炎の気配は恐ろしく、本来であればひっそりと冷え込む冷気の立ち込めるはずであった深い夜を、勇ましくかき照らす炎。
漆黒の裾の長き外套を纏う魔術師の××は、己の腰元にも満たぬ幼い少女の頭を撫でながら、ふわりと、か細い笑みを浮かべた。

「もう間も無くこの場所にもき奴らが攻め込むだろう。堰を壊す濁流のように、全てを飲みつくしてゆく」
 
 王宮付きの魔術師××は長い袖から魚の腹のようにすべらかで白い手を出して愛弟子のに小さな袋を与えた。この夏に角兎の皮を剥ぎのめして乾かし作った皮袋、魔術師××の手には小さすぎるが、の掌には大きい。震えていたは涙の溜まった大きな目で皮袋と、師の顔を交互に眺めた。

「××先生」

 夜明け前の寒い空を慰める僅かに白ずんだ空を思わせるような声である。、パンドラ=。皆からはと呼ばれ、愛される魔術師の弟子である。未熟で、すぐに泣き、悪戯ばかりをしてしまうしようのないところがあるが、愛らしい幼子である。

「その中には、賢者の石が入っています。今はまだ、あなたには使いこなすことも、なにも出来ぬでしょうが」

さしあげますよ、よ、××は微笑む。若くして王宮付きの魔術師となり、国王の信頼も厚かった偉大な人物だ。此度のこの、戦を止めようと様々な策を練り、叫んでいたことをは知っている。けれど、師ですら、この、流れを止めることはできなかった。そのことが、には恐ろしい。一体、なにが、なぜ、何を、しているのだろう。

正直に考えれば、にはわからなかった。正義というものは、どちらにあるのだろうかと。思えばどちらにも正当性があるように思える。いや、寧ろ、己の祖国××王国に根付く主だった思想は――世界という存在を一つの生命のある盤上とするのであれば――世界にとって危険極まりないものと言われてもしようのないことなのではないだろうか。今、まさに己の祖国を根こそぎ滅ぼそうとする「連合国」とやらは、悪か。には判断が付かなかった。いや、本来は何一つ己で判断したことが、これまで一度もない。全てがの頭上で始まり、決まる。飛び交う言葉の意味も己は理解せずに済まされて、そうやっては安穏と生きてきた。知るなと、そう、本能が赴くような自然さで己の声に蓋をしてきた。それで一切困ることもなく。

「さぁお逃げ、パンドラ=。お前の時は止まった。わたしが与えられる最後の愛情だ」

 魔術師××の白い指先が、の額を、頬を、瞼を、喉を、唇を撫でる。堰き止められるような奇妙な音がの頭の中に響いた。いや、何かが、軋むようですらある。
 腕を包む袖は、辿れば上等な布衣。焚き染めた僅かな香は、この燃えつく周囲の悪臭にすらかき消されえぬ高貴なものだ。はこの香が好きだった。忘れることのないようにと、目を伏して嗅覚を働かせる。

 なぜ師は共に逃げぬのかという疑問は、浮かんですらこぬ。そういうものなのだと、未熟ではあれど、同じ魔術を扱う者として、そう、承知していることだった。なぜ己のみが逃がされるのかと言う疑問も、同様である。誰も彼もが、この王国の滅亡から逃れようとする。逃れようとせぬ者は、魔術師××や、王国の×××らくらいなもの。死んで花実が咲くものかと、誰もが知っている。だからこそに、それゆえに、魔術師××や、王国の×××らは残るのでもある。

 燃え盛る炎の中、冗談めかして作られた木の箒に跨って、は夜空を飛んだ。流れによれば、木は炎に燃やされるもの。いくら上空をはるか上に行こうとも、その道理が曲げられることはない。暫く行けば、段々と箒の速度も、高度も下がっていく。けれど無事に、あぁ、もう二度と戻ることの出来ぬ己の住処、魔術師の塔からの脱出は叶ったのだ。は燃えてしまった箒を捨てて走り出す。空は夜が引かれているというに、真昼のように赤く、明るいものとなる。月の光は酷く弱々しくて、まばらに散った白い雲の向こうに頼りない星の輝きを見つけることさえできそうにない。


人の悲鳴さえ聞こえなくなった。遥か遠くに、逃れられたということではない、声を上げて命を請う生き物が存在しなくなった、のだ。たったの一夜にしての、この騒動。鉄壁の総門を失い、武器を、鎧を奪われた王国が滅びるのは時間の問題だと、そう、言われていたにしても、この無常さは何と言うべきなのだろうか。、わき目もふらずに走り続けた足を止めた。逃れろと、命じられるままに走り続けた足ではあるが、すでにその命を下した師もおらぬ。は一人で生きられるだけの準備を心得てなどおらぬ。「生」も「死」もには遠き夢物語の魔法の言葉のように思える品で、こうして、王国が滅亡し己の生命すらも危ぶまれるべき状況に至って、気付いた。もはや己は死のうとせぬ限り死ぬことのない身である。魔術師××が死してしまったのであればなお更、師の魔術の全てが己の身に注ぎ込まれることとなろう。しかしそれらの巨大な力とて、準備の出来ておらぬにはどう扱うべきかわからぬもの。それで、己は何をすべきなのかと、わからぬことに気付いた。

 の肩に激痛が走った。弓の撓る音が耳に付き、赤闇の中をこちらに向かい飛び込んでくる一条の矢が、体を低くしたの耳を掠る。痛みに体を崩し、地を舐める。馬の嘶きに、顔を上げたの瞳に映る赤い甲冑の男。漆黒のマントを羽ばたかせ、己に振り下ろされる刃。防御など知らぬはただ目を伏せ、身を強張らせた。

 飛び出した黒い甲冑の男。真紅のマントを靡かせてに振り下ろされた剣を受け止める。

「止めろ!バージル!!」
「なぜ庇う!なぜその娘を生かそうとする!ダンテ!」

 向かい合い、二人の男、馬上のバージル、を庇うように身を低めるダンテ。それぞれ剣を構えながら睨み合う。

「武器を持たぬ!この娘は××の者だと言い切れるのか!」
「この戦場にいるのは我等が軍の者どもか、××人だけだ。我等が主××××の命を忘れたわけではあるまい!」

赤い甲冑のバージルは剣を黒の甲冑のバージルに向けた。連合国軍が誇りし五指の将軍の一人であるこの男、容赦のない殺意を、同じく五指の将の一人である黒い甲冑のダンテに注ぐ。此度の戦の信義の在り処などバージルには関わり、一切の興味のないことではあるが、それでも、このいけ好かぬ“英雄”の、偽善者の行いの過ちを叫ぶ。

「全てを根絶やしにする!王国の者、その思想の産湯に浸かり生まれた生き物は、たとえ乳飲み子といえど生かしてはおけぬ!」

 言い争う二人の男に、空からの雷が落ちた。といって、さほどの威力のあるものではなく、素早く状況を察知した黒い甲冑のダンテが、背後の少女、己が庇った「か弱き乙女」を振り返る。手に細い木の枝を構えた少女、はぎゅっと悔しそうに唇を噛んだ。

(だめ、だ。まだ、まだまだ私如きの魔力では……!)

人の命を奪うほどにはならぬ。しかし、辺りに十分に焦げた肉の匂いが漂うように、全く一切聞かぬというわけでもない。

「き、さま……!魔女か!」

 馬上のバージルが吼える。その目には憎悪、狂喜、深い怒りが瞬時に宿り、馬でダンテを蹴り飛ばし、に向かいかかる。

「ま、待て!!」

 地に伏した黒い甲冑のダンテ、咄嗟にバージルの馬の足を掴み、進みを妨害する。

「ダンテ!!貴様!聖戦の大義名分、××の最大の罪を思い出せ!魔女を庇うなど、我等に対する反逆だ!!」

叫ぶ、叫ぶ、男たちの声が響く。は力を振り絞って走り続けた。駆ける、駆ける、燃え広がる森の中を進み、とある洞窟の中へ辿り着いた。湿る岩の臭いと、何か、の慣れぬ磯の香がする。ずるずると、壁に肩をつけながら奥に進む。確か、あぁ、そうだ、確か、この洞窟はアマトリア、技法という名の魔術師が、の兄弟子がこの戦の始まる直前から、何ごとか仕業を行っている場所ではなかったか。来るまで気付けぬのは、は王国の主だった敷地以外に足を踏み入れたことがなかったからだ。が知ることと言えば、魔術のことと、わずかばかりの、都の思想。

鬱蒼とする洞窟の中を進めば、ぼんやりとした灯りが見え始めた。蝋の燃える香もした。進めば、緋色の衣を纏った、兄弟子のアマトリアが洞窟内を流れる川、いずれは海に繋がる水の流れに何やら、撒いている。

「アマトリア……?」

 不審に思えた、その、指先から流れて落ちる黒いものは、ただの「何か」ではないように、の魔術師としての、未熟ではあるがそれなりに勘の働く神経が告げる。

「我等を悪魔と言うあの連中に、このまま我等が滅ぼされるのはさびしいことと、そう思うてねぇ」

のんびりと、振り返った兄弟子の顔は半分、つぶれている。気付けば、右の肩からあるべき膨らみがない。ローブに隠れて見えぬが、強い鉄の臭いが、する。身を苛む強い感情に、は必死で蓋をしてたまらず兄弟子に縋る。

「アマトリア!」

何をしているのかと、は、答えがわかって直、問いかけずにはいられなかった。そうだ、そう、王国滅亡の足音が聞こえ始めたのは、そう、だ。頼もしき騎士たちが、が懐き、王国が信頼した「彼ら」が次々と命を失ってから。彼らの「能力」を、兄弟子が拾い集めたのは、道理なのかもしれない。

「世界中に、ばらまいてやるのだよ。我等を。悪魔といわれた我等の存在を、世界中に撒き散らす。愉快なこととなるだろう?食したものは、我等と同様、悪魔と呼ばれた力を手に入れる」

はらり、と、袖を振って最後の種を、海へと繋がる水の流れに落とした。芽吹きいずれは一つの「実」となるのだと言う。連合国との縁は途絶えることがないだろうと、そうも、笑う。アマトリア、その呪いを逆手にしている。

「あぁ、。かわいいパンドラ=。お前は死んではならないよ」

ぎゅっと、片方だけ残った腕でアマトリアは妹弟子を抱きしめてその背をゆっくりと撫でた。そこで初めて、は「酷いことを言われている」のだと感じた。師も、皇も、姫君たちも、王子たちも、騎士たちも、皆、皆死んで行く。連合国の前に、逃れられるほどの力が、運があるものはどほれどいるのだろう。

なぜ、己にだけ、その悲運を背負わねばならぬのだと、は初めて、理不尽な要求に異論を唱える心が芽生えた。それを察知できぬ兄弟子ではない。何か言おうとしたの唇に指を当て、微笑む。

「我等が滅ぶことがどういうことか。今後、あの連合国を名乗る連中がどう、世界を付くのか、我等が滅ぶことが正しかったか、間違いか、それを、さぁ、見て行きなさい」

見て、いったい、見てどうなるのだろう。己一人が生き残り、何かできるわけではないのに!そうだ、そう、己がこれから先永遠に生きる生き物と成り果てても、長い時間を掛け、受け継いだ全ての力を容易く扱えるようになったとしても、もはや己を知るものは誰もない。何もかもを失ってまで、一体、何をしろというのか。

「やつらの作る世界が悪くなければ、我等の滅びも悪くないものだったと、そう思え。やつらの作る世界が悪いものであれば、我等の滅びは悪いものだったと、そう思え」

思う、だけか。その言葉は、あまりにも優しく、無責任に過ぎた。アマトリアは、に何も期待をしてくれているわけではないのだ。常のように、落ちる城から王妃や王女が落ち延びて新しい王を生み、都を再建させるようなことを、アマトリアはに求めてはいない。アマトリアは優しく言って、の夜色の髪を撫でた。

「わたしのこの実のように陛下も何か手を放たれたらしい。最の硬度を誇るあれを集めていたからね。あぁ、パンドラ=、お前はわたし達の知恵がどう芽吹くのかを見ていなければならないよ。誰も、これがわたし達のものだと知る者がいないのは不愉快だ。誰か一人だけでいい、のちに、必ず世界を騒がせる一因を放ったのが、わたし達であると、知っていて、見届けてくれなければならないよ」

それに、と、アマトリアはを放し、その肩を叩いて、目を細め、愛しい記憶を手繰るように続けた。

「一人きりにはならないよ。私の種が芽吹けば、また懐かしい彼らに会える。お前の親しかったものたち、お前を覚えていなくても、お前にさびしい思いをさせたりはしない」

ひゅん、と、アマトリアの首が落ちた。白い首の上、背後に回り剣を振るったは、先の赤い甲冑、バージルである。仮面を外し、口元には薄っすらと笑みさえ浮かべて、恭しく、に礼をする。

「よもや再びお会いできるとは光栄だ、王国の魔女殿」

言葉の慇懃さは心底の憎悪ゆえのもの。未だアマトリアの血の滴る剣をに向けて、その胸に狙いを定める。足元でぴくりぴくりと痙攣するアマトリアの体の振動がの足の裏につたい、ただ、恐怖でカタカタと体が震えた。

「我等××の一族の受けた痛みを思い知っていただこう」
「待て!待つのだ!バージル!」

貫かれる刃を、再び現れた黒のダンテが阻む。剣では止められぬと先の出来事で知ったか、今は手に書状を携えて言う。

「まて!バージル!!×××殿下の命が下った!この娘、この、最後の魔女の命を奪うことは許されぬ!この魔女は我等が連合国に正義のある証!!殺すわけにはいかぬ!!」
「何を馬鹿なことを!生き残りがあって許されるものか!此度の聖戦の犠牲全てが無駄となる!」
「なればこそ!なぜ××王国が責め滅ぼされねばならなかったのかと、それを、知らしめるために!」

黒の騎士は声高らかに叫び、剣を抜き放った。揺らめき燃え広がる灼熱の炎に輝く銀色の刃を、赤い甲冑の騎士に突きつける。

「この娘の命を奪うことは誰にも許されぬ!!」


Fin


 

(世界の正義の礎に)