*残酷流血描写多数有。






そういえば昔、まだ海兵になって間もない頃に一度だけ海でおぼれたことがあった。その時はまだただの人間の身で、海に嫌われていることことなかった。だが、大津波に巻き込まれて身動きもとれず、ゆえのことである。助けてくれたのは海兵で、その、いやに恰幅の良い、太陽のように笑う男が、豪快に幼いドレークの頭を撫でながら話してくれた海の伝説を思い出した。唐突な記憶の再生。

海で溺れる者を、たった一度だけ助けてくれる生き物が海底に住んでいる、と、そういう話。青い眼の小さな生き物が海底には沈んでいて、幼い子供や船乗りを助けてくれるのだと、そういう話をされた。

今まさに、何故だかドレークは唐突にその話を思い出し、目前の、あちこちが真っ赤に染まった少女を眺める。関連性があることとは思えない、だが。浮かんできた。に関しては時折そういう、ドレークには確信のない妙な予感が湧くことがある。北の出身だからだろうと、以前相談した同気に言われた。何のことかはわからぬのに、同期のその男があっさりと「そういうものだ」と当たり前のように言うものだから、ついドレークはそうなのかとあっさり頷いてしまった覚えがある。でも本当はその時に、そういう理由なのだとあっさり己に言い聞かせることでそれ以上の追及を、解明から避けていたような、そんな予感はあった。

「……」

ドレークは、押し黙った(普段の騒々しさが嘘のように)を見下ろし、眉を寄せる。本人の好みは黒らしいが、海軍本部で、正義の白さのまぶしい場所でその色を身につけることは滅多にない。真っ白い純白のワンピースを纏う姿。正義は白、穢されることなどあってはならぬと堂々としたその色は、にはどうも似合わぬと頭の隅で思った。こ擦り切れ、焼けた服を隠すこともなく堂々と、生焼けの肌すらそのままに、はドレークが伸ばした手をパシン、とそっけなく払う。

「ぼくは、へいきだよ」

ふふん、と、これっぽっちがどうなのか、と、一種傲慢にさえ見えるような態度をあえてとる。それでにへら、と笑うそぶり、その刹那いとけない眼に微かに指した狂い染みた色に気付かぬほど凡俗のままではいられていない。それでもドレークは眼を伏して静かに、ゆるやかに首を振る。さらさらと何かが落ちていくような、そんな音を頭の隅で聴き、そのままそっとの手を取った。先ほどまでは見るも無残な有様。血管は千切れ赫々の細胞は焼け爛れ落ちていた、骨さえうっそり見えていたはずの場所が、今はまるで何もなかったかのように白い幼い子供の手。微かな痕さえ何もなく、彼女には誰も何も残すことはできないのだと明らかに突きつけてくれるような、そういったことさえ細事ですらないのだと彼女は何も気にしていない。けれど、それが赤犬の神経をすり減らさせるのだ。そう思っても、己に何か出来ることはない。それが歯がゆいのだと一瞬沸いた心は、憐憫ゆえなのか、それは解らなかった。

直接的な結果を言えば、どうやらの何かしらの言動が、例によって例の如く大将赤犬の気に触り、海軍本部“奥”では決まり切った出来事、赤犬の暴力がを襲ったと、それだけのことである。半年前、ついに少将の身にまで上り詰めたディエス・ドレーク、このところは五老星からと赤犬の監視のようなものも任されており、いつものように赤犬の執務室からケタ違いの熱気と、轟音に慌てて駆けつけ、容赦なく蹴り飛ばされたがその体を壁に激突させる前に受け止め、今に至る。

するすると、無言でただひたすらじっと、ドレークはの腕に白い包帯を巻いて行く。奇妙なものを見るようにキョトン、とが顔を幼くして見上げてきた。

「ねぇ、もう治っ、」
「わかっている」

普段の己にしては聊か乱暴な口調になって、の言葉を遮った。普段喧しくしていることもある、何か様子の変化を感じ取ったのか口をつぐみ、ドレークを見つめる。その眼に己がしっかりと写っていることを感じたが、ドレークは顔を上げなかった。の腕に、ただ包帯を巻いていく。先ほど赤犬の、傍目からはただ理不尽な暴力によって(そしてたとえ理由があるにしても、やはり彼には、暴力だと思える)抉られた何もかもが、消えてしまっている、その上に、何の効果もないとわかるのに包帯を巻いていく己の心は、どういう結果になるのか。

一度目を伏せて、半年前の昇進式の後に謁見したエニエスロビーにひっそり眠る“世界の果て”を脳裏に浮かべる。何もかもが誰もかもの手を通り過ぎていくのだろうと、そう突き付けられるような。己の無力を高らかに嘲笑されるような、そんな敗北感を確かに感じ取った日のこと。それならばなぜ正義はあるのだろうかと、頭の中が真っ白になった。

「わかって、いるんだ」

重ねて呟いて、ドレークは目を伏せる。

細い腕、小さな掌。この手に当たる光が、永遠であればいいのに、と、そのように焦がれる。永遠であるはずの少女にそのように己が願うこと、それが既に己の傲慢性なのではないかとそんな疑問。打ち消して脱胎としてしまうには世界はあまりにも広すぎるもの。

ドレークは包帯を結び、の頬に手を伸ばした。びくり、と、普段どんなことをされてもひるむことのない生き物が、込められた意味を感じ取り狼狽して震える。その真っ青になった瞳から涙がこぼれる前に、ドレークはの瞳に口付けた。

「お前は何も悪くない」

大きく見開かれた眼に、僅かに正気の光が差し込めた。そしてそのまま、何かを叫ぼうとするの唇を押えこみ、ドレークは緩やかに首を振った。互いに無言、ただただ、無音のその間。ドレークの肩を握りしめていたの手が離れた。

ドレークは今夜、海軍を出る。







縁側の淵に、光を寄せて








「怪我でもしたのか」

問われては顔を上げた。インペルダウン下層部の、シリュウ看守長どのの執務室。短すぎるマゼランの勤務時間からすればこの男はよく働くなぁ、と最近のの感想。この地獄を管理するマゼラン以下の番人はシリュウだけ、ではないのだけれど、諸事情があってはシリュウのところに預けられていた。普段のからは想像も出来ぬほどきっちりと着込んだ制服に、伸びた背筋、容姿こそいとけない少女のものであるけれど、これで随分と長い時間を生きてきた、遊び心の一切をなくせばシリュウの補佐をすることはそれほど難しくはない、というのが現実だ。別段が優秀うんぬん、ではない。どちらかといえば、は己は暗愚のタイプであろうという自覚もあった。長く、随分と長い時間を生きていれば、たいていのことは出来るようになる。だから、出来るだけ。もしも本当に優秀な人間が自分と同じくらいの時間を生きて様々なことを経験していたら、きっと世界を作り上げることだってできるだろう。それくらい、長生きには価値がある。

は手に持っていた書類を丁寧に棚に仕舞いながら振り返る。今日の午前に固唾蹴られた書類は全て種類順に棚の中にしまわれるのだが、更に色で付箋を貼りどのような内容なのか、或いは重要度などをわかりやすくしておくのがの仕事。やれ、といわれたわけではないが、必要だろうと判じてのことだった。それで別にシリュウも文句は言ってこないので、今日の仕事を片付ける片手間にそのようなことをしている。

「なんで?」
「そりゃなんだ」

カリカリと机に向かって書類を処理しながら、相変わらず葉巻を咥えたシリュウが尋ねる。その灰が紙に落ちて燃えたらどうするのだろうかとはいつも突っ込みを入れたくなるのだが、そうなったらそうなったで、きっとこの男は何とかするのだろうと、それはわかっていた。

それ、と言うものが何なのかは自分の体を見下ろして、すぐに気付く。

の手首に巻かれた、真っ白い包帯。ところどころ赤く血がにじんでいる、ということこそないのだけれど、明らかに「今朝付けました☆」という新品。目ざとくシリュウが見つけたわけではなくて、そのまっ白さは目立つだけのことである。

「誰にやられた」
「心配してくれてるの?」
「ほざけ、誰がテメェなんぞ」

低く馬鹿にしたように笑い声。それで口元の葉巻を手に持ち、に向ける。ちりちりと今も燃えていく紙の音や上がる煙をじっと眺めてから、は肩をすくめた。別段己とて本気で言ったわけではない。たとえインペルダウンの囚人たちが一気に更生するような珍事、じゃなかった、奇跡があったとしても、雨のシリュウ閣下がの身を案じるようなことなどない。

「屑を斬るいい理由になるだろう。大義名分、ご大層な“権利”をお持ちの魔女を庇護する名目で好き放題できる」
「時々、思うんだけどさ」

ニヤニヤと楽しそうに、揶揄るようにして笑うシリュウなど構いもせずに。は背を向けて、書類の整理を再開する。さほど難しいことでもなく、口を動かしながら手を動かすことも容易い。とんとん、と頭の隅で次の行動を思いながら、言葉を続ける。

「ぼくは、インペルダウンに閉じ込めて置かれるべきだったよね」

ぴくり、と、空気が僅かに揺れた。はシリュウから背を向けていたが、その、極悪非道なんじゃなかろうかと噂に高い外道・鬼畜の男の、葉巻を持った小指の先がほんの少しだけ、動いたことを感じ取る。それを明らかに突き付けてやるだけの根気も鬼畜さも持ち合わせがなかったから黙り、くるり、と再度シリュウに顔を向ける。

「っは…今更なんだ」

が振り返った時には、もう何の変化も見られぬ、さすがはリシュウ閣下。短くなった葉巻を灰皿の上に押しつぶし、引き出しの中からシガロを取り出す。そのまま、優雅ではないが粗野とも見えぬ手つきで火をつけていくその様子。厭に様になっているとは思いながら、緩やかな笑みを浮かべる。

「今更かな」
「あぁ、今更だろう」
「そうかな」
「中将だったあの男に捕まって十年、テメェはこの地獄にいた。そこで大人しく鎖につながれてりゃあいいのに、七武海のバカな小僧一人に絆されて出て行った時にゃ、笑ったもんだ」

互いに仕事は止めて一時会話を続ける気になったらしい、どっかり椅子に座り込んだままを眺めるシリュウに、胸にファイルを抱えながら、壁に背を預ける。昔を懐かしむような声音で、しかし明らかに侮蔑を含むリシュウの言葉。せせら笑われる響きを感じ取り、はふん、と鼻で笑った。

「ぼくがいなくなって寂しかったかい」
「ほざいてろ。マゼランの野郎じゃあるまいし」
「彼は何も悪くないのにね」

今もトイレで格闘中だろうこの地獄の長を脳裏に浮かべ、は目を伏せる。結局のところあの男はやさしすぎるのだと常々に思っていた。強い、とても強い男だ。この魔女の釜の底のような場所を制して常を流せる器などそうはいない。だが、とてもやさしい。そうと判じる己の心はどこまでも上から目線で傲慢に過ぎやしないかという自覚もあるが、しかし、マゼランのことを想うとどうも憐憫しか湧いてこない。いけないと、己などがそう思っても何の意味もないじゃあないかとわかるのに、はその思考から抜け出せぬ。そう鬱蒼とした心になっているところにシリュウの容赦ない言葉。

「同情してやれるんなら手でも握って口付けてやれ」
「自分の上司の傷口を抉れって堂々と言う君の気が知れないね」
「おれの正気の保証なんぞ、誰もしねぇさ」
「ぼくを狂気の証明書がわりにするのは止めて欲しいんだけど」

ふん、と互いに笑い飛ばし、そしてリシュウが立ちあがった。カツカツと軍靴を鳴らしてに近づき、己の腰までもない少女を見下ろしてくる。その目が幼い子供を見ているという様子がかけらもなく、それがにはいささか面白い。世に、この自分の正体を(すべてではないけれど)知る者はゼロではない。が、知ってもなお人はを「幼い子」と見る。いや、知ったからこそに「いとけない子供なのだ」とそういう目をしてしまう連中ばかりにいい加減うんざりしたくもなっていた。だがシリュウは違う。別に、何もかもを知っているわけではない。だが、ロブ・ルッチと同じくらいはのことを知っている。それでもこの、地獄の番人、マレブランケの一角は一切の容赦もなくを「子供」と見ない。

「そういやぁ、テメェの狂気は“赤旗”X・ドレークが証明してくれたな」

ゆっくりとに近づき、ゆっくり見下ろすリシュウの軍刀色の目が、鋭利に細められてを映した。いっそ穏やかとさえ言える音でのその言葉に、の目が見開かれる。当たり前のようにの肩口に、シリュウの刀が突き立てられた。

「……っ」

驚く刹那、走った痛みに顔をしかめ、シリュウを見上げる。あまりのことに反応できずにいた己は当然として、やけに楽しそうに口の端を持ち上げるシリュウに腹が立つ。そして肩に埋め込まれた刃がぐりっと回されて傷口が広がった。

「ぅ、あっ……ぐ……」
「言っとくが正当防衛だぞ」
「どこ、がッ……!」
「今おれがこうしなきゃ、テメェはおれを殺してただろ。テメェはおっかねぇ魔女だからな。おれなんぞ消されちまうじゃねぇか」

ぐいぐいと、遠慮なく肩を抉られ、激しい痛み。脂汗さえ浮かんできて、それでもシリュウを強く睨みつける。壁に貼り付けられた体制のためしゃがみ込むことができず、ガクガクと膝が震える。必死に歯を食いしばって、刀がこれ以上動くことのないように押える。鋭利な刃は容赦なくの手を斬り裂き、今もぐいっと回される強い力を押えるために刃が食い込んだ。

「今更後悔なんてするんじゃねぇよ、悪意の魔女、嘆きの魔女。テメェはこの地獄から逃げだした。くだらねぇ屑の立った一言に絆されて、この場所から出た。どうなるかの想像もつかなかった?本当に?テメェは自分がどんな化け物か知っていて、本当にわからなかったのかよ」

じわりと、の目に涙が滲んだ。痛みゆえではない。堂々と、突き付けられ、暴かれる一切。手の白い包帯は、肩から溢れる血で染まってけがれていく。

「テメェがマゼランを憐れむのは、そこに自分を見てるからだろう?」

流れていく赤々とした、悪意としか言いようのない血が溢れ、の目に焼きつく。大きく目を見開き、乱暴に顎をつかまれるままシリュウを見つめる。逸らそうと、そらさなければと思うのに、の体は石のように固くなって動かない。ゆっくりと、どこまでも愉快そうな、リシュウの声が響いた。

「『お前は何も悪くない』そう言って頭でも撫でて欲しいのか」
「……違う……!」

声を上げ、の体が揺れた。左肩がざっくりと横なぎに切られ、骨さえ立たれた。乱暴にシリュウの呪縛から逃れて、シュウシュウと音を立てて体が高速再生してゆく。極度の回復は激痛を伴い、の意識が朦朧としてくるが、それでも掌を握りしめ別の痛みで意識を保つ。ぎりっと音がするほどに奥歯を噛み締めて、シリュウを見上げた。

「何が違う。テメェは何も悪くないと、そう言ってくれていたたった一人の男は、テメェの無実を証明するためにテメェを捨てて行っただろう。テメェのために、保証済みの正義を捨てただろう。あの男が死ぬようなことがあれば、それはテメェの悪意だろう。テメェが殺したんだろうよ」
「違う…!!違う!!ディエスは、ドレークは、赤旗は……!!自分の正義のために出て行ったんだ!!ぼくは関係ないって、ぼくには何もしてあげられないって、そう、言った!!!そんな必要ないのに、それを悔いていたんだ!!」
「本気で信じたのか?」

ひゅうっと、の喉がか細くなった。悲鳴、のようでもある。それがついに音を失くしてさまよったような、弱々しい、悲鳴であった。それに憐れみでも覚えて止めてやるシリュウではない。ニヤニヤと笑いながら、壁に追い詰められたままそれ以上逃げられぬを見下ろす。

「冗談だろう?海の魔女。400年前にあんなことのあったお前が、他人の嘘を信じるものか」

追い詰められたの首をシリュウが掴み上げる。呻く喉を押え、刀を持った手で浮かんだ涙を拭えば、が唇を噛み締めた。

「いっそ全てに謝して首でもくくりゃいいものを、テメェは笑顔なんてくだらねぇものを振りまいて世を騒がせる。今更後悔なんざするんじゃねぇよ、見苦しい。いっそ開き直って悪にでもそまりゃ上等だ」

そしてそのままシリュウはの手に巻かれた包帯を取り払った。もう傷一つない体を切り刻んでやろうかと、そういう物騒な危うい光が浮かび刀を持つ手に力が入る。

ぽろぽろと、の目から透明な涙があふれて落ちた。あとからあとからとめどなく流れる涙を、もうぬぐおうとする気がシリュウにはない。一瞬、こんなところをマゼランに見られたら自分は本気で殺されるだろうと思いながら、それでも刀をに突き付けて、その脇腹を薙いだ。

鮮血、というには黒さの目立つ血液が室内にまき散らされ、内蔵、腸が垂れる。さすがに呼吸器官を傷つければどうなるか見当もつかなかったが、容赦できる心はなかったので面白半分に肺を刺すとごぼっ、と、の喉から血塊が沸いた。

唇からだらしなく血を溢れさせ零すをさめざめと見下ろし、どさりと床に捨てる。盛大にむせびながらが上半身を起こそうと突っ張った腕を、シリュウは踏みつけた。

「大声でも上げてマゼランの野郎を呼ばれちゃ困るんでな。喉は潰させてもらうぞ」

了承など得るつもりで聞いてはいない。の耳に言葉が届いたかどうかも確認せずに、横たわった小さな体を蹴り上げ、靴の踵に白い喉をあてがい潰す。首の骨まで砕くつもりだったが、そうする前にの腕に付けられていた包帯が視界に入った。まっ白だった布が、今は赤黒く染まっている様子に、妙な満足感を覚える。己は何を苛立っているのだろうかとシリュウは頭の片隅で思いながら、呻くの髪を掴みあげた。体の痛みと、それ以外の痛みで顔をぐちゃぐちゃにしたの頬に触る。

心の底から、が死ねばいいとシリュウは思う。死んでしまえばいい、死ね、死ね、死んでくれよとそう思う心。その根底が何なのか、愛ではない、激しい憎悪だと自覚している自分。だがなぜ憎んでいるのか、それはよくわからないのだ。









さぁ付きつけろよ、無様な葬列



Fin








 

あとがき
閣下は外道ですネ☆

(2009/06/15 23:34)