大事なものは目蓋の裏









カツカツと軍靴の音を鳴らしながら長い回廊を進みゆく白い背。長身、とは言わぬがきっちりと伸ばされた背筋が彼女の身長を実際よりやや高く見せるらしい。明日昇格式を控えたレルヴェ・サリュー。最近の多忙さでつい散髪にゆく時間を取れずにやや伸びた襟足を背で揺らしながら颯爽と歩く。

最近の彼女の業績は海軍本部上層部でも会話に上るほど。過去急速に「手柄」を立てて階級を軽快に上がっていった人間はいないわけではないにしても、ここ数年、女性で非能力者、何の後ろ盾もない海兵が尉官からこの短期間でここまで上り詰めた事例はない。実力のある者でも5年はかかる道のり。まだX・ドレーク少将が海軍本部から離れて2年も経っていないにも拘らず。

レルヴェ・サリューの昇進には、面白いほど「圧力」が掛けられていた。何しろ海軍本部の“汚点”とされ今でも苦々しい顔で人の口に上る、一年と少し前に起きた「ディエス・ドレーク少将の造反」にレルヴェ・サリューが関与しているのではないかと、そう危ぶむ連中は多かった。なぜあれほど信頼し合っていた二人であるのに、ディエス・ドレークは彼女を伴わなかったのか。いや、あるいは、彼女がドレークの造反の手引きをしたのではないか、今もこうして本部に残ることで海賊X・ドレークに情報を流しているのではないか、など、口の卑しい連中の影口。堂々と詰問されたことすら何度もあった。ドレーク造反の直後には査問委員会にかけられ、一時の謹慎を言い渡されたこともあったが、あの時口もきけないほどの衝撃を受けていたサリューには丁度いいといえば丁度良かったのかもしれない。

何もかもがサリューの図上を通り過ぎて一方的に交わされていくような。「なぜおまえがここにいる」「あの男は何を考えている」「目的はなんだ」とこれまでお目にかかる機会もないほどの上の政府役人・海軍将校に尋ねられても、それはサリュー自身も己に問いたいことで答えられなかった。なぜ!と無遠慮な暴力にさらされることもあった。激昂する海兵たち、見下ろされ、殴られ、見上げながら、サリューはその叫びは己のものなのだと、思う以外になにも、なかった。なぜ、どうして、なんで、と、毎朝毎晩考える。朝日が昇るたびに、なぜ己はここにいるのかと、夕日が落ちるたびに、なぜ自分はここにいたのかと、自問自答する。周囲の困惑も疑問も己への疑惑も強かったが、一番強いのは、サリューの「なぜ私はここにいる!!!」と叫ぶ声だった。

その期間は、どれほどのものだったのかサリューはよく覚えていない。一室に軟禁されて、外へ出ることもかなわず、運ばれてくる食事や情報をただ受け取るだけ。土から切り離されてあとは枯れるだけしかない切り花のようだった。

あまりに騒動が大きくなりすぎて、困窮したセンゴク元帥がレルヴェ・サリューをインペルダウンに送りことを納めようかと、そんな判断を下しかけたらしい。ぼんやりと、閉じ込められた部屋の前で、同期の海兵が慌てて知らせてくれた言葉を聞いても、サリューは「それなら己も犯罪者になる」と、ただ、そんな、今思えばくだらぬことを考えた。

誰もサリューを守ってはくれなかった。親しい同期にそれだけの力はなく、上司が消え、その上司と共に消えた海兵たちは、そのままサリューの知人でもあった。サリューはたった一人ドレークの執務室に残され、ドレークが置いて行った物たちに埋もれてしまいそうだった。誰もかもが、次第にX・ドレークの造反を記憶から消そうとした。サリューの存在も、消そうとした。彼女とドレークの信頼が強かったことは周知の事実。たとえサリューの身が潔白であろうと、サリューを見るたびに敬愛していたドレーク少将を思い出し、顔を顰める海兵もいる。

だから、レルヴェ・サリューの存在も、時間が消し去ろうとした。彼女の一番“上”の上司である赤犬はもともとサリューに対して良い感情を持っていない。周囲には「よく目を掛けられている」と認識されていたが、そんな事実は欠片もないことをサリューもよく知っている。赤犬が己を庇うとは到底思えなかった。

さらに言えば、ドレーク少将の上司であった大将赤犬サカズキとて、この造反では一切不問というわけにはいかなかったらしい。それはサリューの詳しく知るところではないが、何らかの処罰を受けた、とは聞く。

様々な人間の、ただすぎるだけだったかもしれない時間に多大な影響を与えた、ディエス・ドレークは今、赤旗・X・ドレーク船長と呼ばれ、どこかの海で犯罪者となっている。







白い大理石の回廊を過ぎると、海軍本部“奥”の小さな庭に出る。表の海兵訓練の声の止まぬ場所とはかけ離れた、静かな場所。まっ白いベンチに木から吊るされた真白いブランコが、正義の猛々しい将官クラスの使用する凍の中にあることは妙な違和感を覚えさせるが、見慣れたサリューは、そのブランコの上にちょこん、と座って足を投げている小さな少女の背を見て、ふわり、と表情を和らげた。

、」

少し待たせてしまったかもしれない、と、謝する心をこめて名を呼べばその途端、体が動かなくなる。なんだかこの最近、こういう風に突然体が動かなくなる事態に慣れてしまっている己を内心、え、それってどうなの、と思う心はあるにはあるが、自分よりも実力の高い連中ばかりが身の周りにいるのだから仕方ない。ギシギシと、動こうと体に力を込めてもビクリともしない己の身に眉を顰め、せめてが振り返る前に何とかしなければ、と思う。

その、見えない力と戦うサリューの背後から、ふわり、と、やわらかな羽の感触、包み込み。そのまま抱きすくめられた。

「サリュ……う、ぎゃぁあああああああああぁあぁぁぁぁぁあああ!!!」

これにはピタリ、と、体を硬直させてしまったサリュー、人の気配に気付いたのだろう、ブランコに腰かけていたがゆっくりと振り返り顔を綻ばせかけ、そして、絶叫が辺りに響いた。

海軍本部の“奥”で、が叫び声をあげて、何も起きないはずがない。









「私の部下に寄るな、触るな、近づくな」

の絶叫の余韻がかき消える前に、「え、すいません、どこから飛んできたんですか」と周囲が突っ込みを入れたいほどの素早さで、どこからか現れたスーツにフード、帽子の奇妙な出で立ちの海軍本部大将が、七武海ドンキホーテ・ドフラミンゴを蹴り飛ばした。

「フッフフフッフフフフ、別に抱きつくくらいいいじゃねぇか。こいつもお前のなのかよ?」
「下卑たことを……」

油断していた、というよりも、まぁおそらくは蹴られることが分かっていたのだろうドフラミンゴ、奇麗にけり上げられ落下し、特徴のある笑い声をさせて赤犬を見上げる。そのドフラミンゴの言葉にサカズキの帽子の影に隠れた目が、あからさまな怒気を浮かべた。

その向かい合う二人の覇気に巻き込まれぬちょうど良い位置で、硬直していたサリューを救出し、先ほどからぎゅーっと抱きついて「うわぁああん!!サリューがぁあああ!!!ハデ鳥菌がぁああああ!!!」と喚いている。とりあえず復活したサリューは反射的にの頭を撫でながら状況の把握をしようと必死に思考を働かせるのだが、えっと、私はどうすれば、と少々混乱したまま。

「良い女じゃねぇか。抱き心地も悪くねぇ、海軍本部にゃ色気のねぇ女ばっかりで退屈してたんだ。今度からおれへの伝令にゃそいつを寄越せよ、赤犬」
「今ここで灰にされたいのか」
「フフッフッフッフフ……!!おれがいないと困るのはお前らだろう?世界の“正義”のヒーロー!」
「海賊なら海に腐るほどいる」

ゴゴォォオオオォオと、双方やや本気の敵意ぶつかり合う。しかし、サリュー、え、これは突っ込みを入れた方がいいのかどうかと悩んだ。これが、をめぐる男同士の不毛な争いなら、まぁ、ある意味いつものことらしいので放っておいた方がいいのだろうけれど、今現在、渦中の人とされているのは、どう聞いていても自分らしい。

「……私はいったいどうすれば……」
「大丈夫だよサリュー!!今すぐお風呂に入ればドフラミンゴ菌は落ちるよ!!サカズキが周囲一帯消し炭にするからこんな事実は消去だよ!!歴史の本文にも書かれない空白の数秒だよ!!」
「あの、すいません、。落ち付いてください」

うわぁああああん、と泣き続けるの焦りっぷりもなかなかのもの。これほど慌てるは珍しいのではないかと頭の隅で思いながら、サリューは「あの」と、を腰に抱きつかせたまま、おっかないにらみ合いをしている大将vs七武海のフィールドに声をかけた。

「後にしろ、レルヴェ・サリュー」
「フッフフ、少し待てよ、たっぷり付き合わせてやるから」

顔をこちらに向けることなく、互いに牽制し合ったまま短く答える二人。ドフラミンゴの言葉にまたが顔を引きつらせ、ぴくり、と赤犬の肩が動いた。

ドレーク少将がいたころは、大将赤犬サカズキは、どう考えてもサリューのことを嫌っていた。例の査問委員会でもサリューを擁護するようなこともなく、そして面と向かって「ドレークの後を追え」と言われたことすらあった。自分を本部から追い出したいのだろう、ということはわかった。その理由もわかっていた。

しかし、ドレーク造反から少ししたころ、まぁ、いろいろあって、気づけば、もう本当に、あっという間に、周囲に「大将赤犬のところの女海兵」と言えばサリューを誰もが思い浮かべるほど、今度は正真正銘「目を掛けられている」部下となっていた。

のためなのだろう、とはわかっている。を守るために、これまでたった一人で赤犬が抱えていた秘密の共犯者に、サリューはなった。だから、その闇に食われぬようにサリューに目をかけて、いずれくるだろう“夜”に備えサリューを高みへ引き上げてくれようとしているのだろう、と。

だがしかし、今この状況は、なんだか違くないか、と突っ込みが入るに足るもの。しかし一応上官と、七武海の方。己が口出しするなど過ぎたこと、と、それはわかっているのだが。しかし、なんというか、なんだろうか。

世に、こういうセリフがあることは知っていた。時折が「読んでー!」と機嫌よく持ってきた本に出てきた時には顔を引きつらせたが、しかし、こういう言葉を言う人間がいるのは、知っていた。

だが、まさか、いや、本当に。まさか、己がこの言葉を使う日が来るとは、この短いようで、ここ数年やったら濃密なサリューの半生でも、思いもよらぬことだった。

心の底から言いたくないセリフだが、これほど適材適所なものもない。

ため息ひとつ、吐いてサリューは額に手を当てる。

「私のことで争わないでください」

海軍本部レルヴェ・サリュー。このところいろんなものに懐かれます。











「全く、お前たち仲がいいのはわかったから良い子におし。お前たちがドンパチやらかして中庭が壊れたら二人で直すまで許さないよ」

海軍本部“奥”の大参謀の執務室。大の男が床に仲良く並んで正座させられているというこの状況。行き過ぎた正義と恐れられる大将赤犬も、おっかない七武海ドンキホテーテ・ドフラミンゴも、この人にはかなわない。海軍本部、みんなの永遠のアイドル(というか、おっかさん)おつる中将は執務机に座ったまま二人を眺めて呆れたように溜息を吐いた。

ちなみにとサリューは仲良くバスタイムである。大袈裟だとサリューは断ったのだが、有無を言わさぬ中将の「このままだとが癇癪を起こすよ」という言葉に渋々、なんだか楽しそうなに手を引かれ、の部屋にあるバスルームへと消えて行った。

「だってよぉ、おつるさん。こいつがもあのべっぴんも独り占めするなんてずるくねぇか」
は私のものだ。レルヴェ・サリューは私の部下だ。何か問題があるのか」
「お黙り、二人とも」

正座したままにらみ合いを始める二人にぴしゃり、と言い放ち、おつるさん、再度のため息。

「どうせお前は相手にされないよ、ドフラミンゴ」
「おつるさん!?」

え、とあんまりな言葉に顔を引きつらせたドフラミンゴ、隣で赤犬が思いっきり頷いた。












「あ、あの、、自分でできますから」

バスルームに入って二人、はきゃっきゃと楽しそうなのだが、いくら同性といってもあまり人前で肌を出すことを好まぬサリュー、眉を寄せて早々に体を洗ってしまおうとしているのに、サリューの背はぼくが守る!と、妙なことを言いながらがサリューの背をごしごしと、洗う。

「ダメだよ!!ドフラミンゴ菌だよ!!?ハデ鳥がサリューにうつったら……それはそれで面白い?」
「すいません、ものすごく必死に洗いたくなったのでスポンジを貸してください」

普段サリューが使う海兵用のシャワールームとは違い、海軍本部“奥”の魔女の部屋にあるの私用のバスルームはとても広い。確か、真夏には水をためてばしゃばしゃSiiとがプールにして遊んで、青キジが凍らせたりして赤犬の怒りをかったとか、なんとも微妙な話を聞いたこともある。

「ところで

泡だらけになった背をが丁寧に流す。そのままザバーっと流れていくお湯を眺めながら、サリューはぽつり、と声をかけた。

「なぁに?」
「約束の時間に遅れてすいません。待たせてしまいましたね」

最近本当に忙しく時間が取れなかったので、会うのはどれくらいぶりか。本当ならあの庭でお茶を飲もうと約束していたのだけれど、このままでいけば午後のお茶というより、少し早い夕食の時間だろう。

「待つのは好きだよ。サリューは絶対に来てくれるから、待つのも楽しいよ」

にこにこと機嫌のよい、体は洗い終わったのでそのまま二人は湯船につかり。海水でなければ泳げるらしいは、ぶくり、と一度沈んで、顔を出す。

「ねぇサリュー」
「なんです」
「ずっとこのままでいる、なんて、無理だと思う?」

サリューは自分の昇進に、圧力がかかっているのは知っていた。赤犬は、実力主義だ。サリューを認めていても、その出世に大将の存在を出すことはしない。サリューの出世は、様々なものに阻まれている。ドレークの造反による疑いの目。だが、そんなものよりも強く、サリューが上へくることを拒む強い力があった。

「何も変わらなければいいのに。ずっと、ずっと、このままでいたいのに」

が、サリューの昇進を阻んでいる。彼女は、随分と長い時間を生きているらしい。普段大将赤犬に庇護され無力で無邪気な少女のように見えるが、しかし、経験・人脈・影響力はこの世界のどんな生き物にも及ばぬのだろう。

たとえばぽつり、と、が「それは嫌だなぁ」と言えば、どうにかなってしまうだけのものが、ある。

はこれまで何がどうなろうと、そんなことは構わないのだと言っていた。時を刻まぬ永遠少女。心さえも止まったままのは、流れゆく時がどうなろうと、そんなものは自分にはどうでもいいことだと、そういうスタンスだった。だが、サリューの目には、このところのは、何かを恐れているように見えるのだ。

人の死すら、一時は悲しいが過ぎ去ってしまった!と言えるだけの経験をしているが、何を恐れているのか。それはサリューにはわからない。だが、は確かに、何かを恐れている。そして、その恐れは、サリューの階級が上がることによって濃厚になるようだった。

何のことかは、わからない。わからないから、サリューは止まれない。己は、のためには生きられない。己がどうありたいか、は、もう定まってしまった。だから、が何かを恐れていても、それを払えるのは、己ではない。

「ずっと、このまま…ですか」
「うん」
「何も変わらなければいいと?」
「うん」
「それは無理です。

ぱしゃん、と、水が跳ねた。見れば湯の中に色とりどりの小魚が泳いでいる。幻想的な光景。跳ねた魚は空を泳ぎだす。きらきらと湯船が光り、跳ねた水が球になって浮かんだ。

「なんで?」

幼い少女の目、真赤に染まった目がサリューを見つめる。サリューは傍を泳ぐ金色の魚が、黒い魚を追おうとして、黒い魚が空へ離れてしまった光景を眺めてから、目を伏せた。

「声が出なくなった頃、一日中部屋の椅子に座り、このまま止まってしまえればいいと思いました」

何日も何日も人と話さず。何もせず、何も考えないでいた。もう何もかもがわからなくなり、自分という存在はどこにあるのか、それすらの興味もなくなった。鏡を通り抜ける少女のように透明な存在になってしまえればいいと思った。

だが、鏡に映った自分の姿を見て、サリューは「そうはならない」と、現実を突き付けられた。

ここから先をに告げることは、とてもひどいことなのだろうと、それは、サリューにはわかっていた。しかし、瞼の裏に浮かぶ、今も消えぬ、あの人を思えば、口が閉ざされることはない。とても不思議だった。あれほど離れていることが恐ろしかったのに、今は離れていても、あの人を強く感じられる。離れることで、とても近くなったような、そんな気が、するのだ。

私は、止まるにはまだ早い。

「髪が、伸びていたんです」

己がどれだけ、何も感じないと、何も見えないと、何も聞こえない、と、そう全てを閉ざしていても、それでも、体は時の流れをしっかりと、受け止めて変化している。サリューが口からのろのろと入れた食事は、サリューの血となり、肉となっていた。サリューが何もしないでいた時も、サリューの体の中は生き続けるための作業をやめなかった。

「生きているから、私は、ずっと変わらずにいる、ということは……できない」

朝起きて、歯を磨いて、顔を洗って、着替えて、食事をして、仕事に行って、帰って、シャワーを浴びて食事をして、同じことの繰り返し、でも、その輪に埋もれてしまっていても、それでも、何も感じないでいても、それでも。

「私の体が動いているから、私はいずれ」

何もかもが、変わっていくのでしょう。

声にせずに、告げ、目を伏せる。ばしゃり、と、水の跳ねる音。目を開けば、が顔を俯けていた。

その、濡れた髪に手を伸ばし、サリューは目を細めてを見つめる。濡れて真っ赤になった髪、赤い、赤い、赤。瞳の色は真っ青な空と海のよう、それでも、その、髪の赤々しさがどこか不吉な含み。まるで夕日のようなその色に、サリュー、の髪から、頬に手を当てる。

「明日、私は准将になります」

明日の夕刻、サリューは昇進式の後、センゴク元帥に連れられて、エニエス・ロビーの“罪人”へ謁見する。
明日の夕刻、サリューは世界の果てを、その目に刻む。

湯の中で金色の小さな魚が、泳いでいた。その鱗に光が反射してキラキラと光る。ぽちゃん、と、魚は跳ねぬのに、湯船の中の水嵩がほんの少しだけ増した。





Fin