瞼の裏に「彼女」が焼きついてしょうがない。一体、どうすればいいのか。悶々と悩む日々に病にでもなってしまえれば多少は楽になれるのではと、そのような被害妄想。その暫く後の日に、泣きじゃくるカリファの声で暫く、現実に戻れた。

「カクが失敗した?」

報告を受けたのは、朝のこと。昨晩、実地に挑んだカクがものの見事に仕損じたと、そういうことらしい。

「えぇ……」

そっとルッチに告げるカリファの顔は青い。CPメンバーですらない、ただの訓練生である自分たち。失敗すれば即座に「処分」されるものと決まっている。ルッチですら、その例外ではないので、その恐怖、というよりも、不安は常々感じている。

「そうか」
「そうかって、ルッチ、心配じゃないの?」

カリファの眼に収まったはずの涙が再び浮かんだ。彼女は将来美しくなるだろうな、と、今から容易く想像できるほど、幼い泣き顔は美しかった。しかし、あのひとほどではないと、ぼんやりルッチは思う。不謹慎だ、今は、そんなことを考えている場合ではないのに。

言葉はあっさり切り捨て非難されたルッチだが、しかし、カクを思わぬわけではない。だが、己らに何が出来るというのだ。

カリファとてルッチに話してどうこうできるとは思っていないだろうに、けれど、何か、ルッチであれば何かしてくれるのではないかと、そういう期待だ。ルッチは特別だと、周りの子供らはそういう目で見ている。

「おぉ、ルッチ!カリファ!」

ひょいっと、部屋に顔を覗かせた、その、人。

「カク!?」

何事もなかったように、平然と、している。カクだ。昨日失敗した後は姿を見せなかった、幼い少年がにこにこと太陽のように眩しい笑顔でこちらに近付いてくる。驚いてカリファは目を見開き、ルッチはカクの言葉を待った。

「カク……無事だったの?!よかった……」
「無事なもんか、いっぱい叩かれたわ!加減というものを知らん!」

近付いてカリファが問えば、カクは顔を曇らせてあちこち身体の痣を見せてくる。確かに、たくさん叩かれたのだろう。だが、切り刻まれたり火傷を負わされている様子はない。それは、とても奇跡に近い。

「生きていたのよ?でも、どうして……」

涙ぐんでカクに抱きつき、しかしこの異常事態に首を捻る。
どのような理由があろうとなんだろうと、失敗すれば次はない。それがこの世界の道理であり、常識である。それが崩れてしまえば、それは世界の損失となる。だから、どのような場合であったって、カクは死ななければならなかったはずだ。

「助けて、くれたんじゃ」

しかし、カクは生きてここに戻ってきている。その疑問、の答えを知る少年はポケットに手を突っ込んでごそごそと何かを取り出す。白い掌に握り締められていたのは、淡い色のキャンディの包み紙だ。

「「部屋」に連れていかれる途中、変な女の人がいての。わしに飴をくれて、頭を撫でてくれた。それで、教官連中と何か話して、そしたら、部屋には行かずに済んだ。あの人が助けてくれたんじゃ」

何を話していたのかカクには分からなかった。しかし彼女が何事かを言ったことが全てで、今こうして己はいるらしいと、その自覚だけはある。

「CP機関に口を出せるような女性がいたかしら……?女性将校のいる海軍と違って、政府の要人に女性はいないはずよ」

首をかしげるカリファ。彼女は女性ということもあり、要人などのデータをよくよく覚えこむことに重きを置かれている。カリファが心当たりがないというのなら、そうなのだろう。




「久しいな、ルッチ。息災であるようだ」
「はい。父上も、お変わりなく」

カクの一件の一週間後、父がルッチを尋ねてきた。現役、である父がここへ来ることは滅多にない。相変わらず気配のないひとだと思いながらルッチは頭を下げて丁寧に挨拶をした。親子、ではあるが、親と子、ではない。己ら。

「訓練場での成績は聞いている。CP9入りも近いだろう」

そのつもりである。頷くと、父は目を細めてルッチを見下ろしてきた。

「……サカズキ中将の不興を買ったそうだな」

一ヶ月ほど前の一件は、やはり父の耳にも届いているらしい。

「そのような覚えはありませんが」

あの男がどのようなつもりであったか、まだルッチには計りかねている。だが、不興を買ったわけではないはずだ。それは直接赤犬に蹴り飛ばされた己でなければわからないだろうと思い、何も言わなかった。

父は暫く黙ってルッチを見ていたが、やおら、溜息を吐く。

「ルッチ、お前は強い。才もある。恐らく、世界政府はじまって以来の、天才だろう」
「ありがとうございます」
「だが、お前には正義がない」

そんなもの、もてるはずがないとルッチは思った。ルッチは賢い。賢すぎると言うても足りぬほど。この世の道理も、不条理もよくよく、わきまえている。だからこそ、正義など存在しないこと、分かってる。しかし、父の望むような、いや、これまで自分がなるべきと定められてきた生き物になるために必要な所有物、であるのなら、手に入れる。

「必要とあらば、」
「口先で正義を説くだけで、闇の正義は背負えまい。小悪党や偽善者と同じだ」

言いかけたルッチの言葉を遮って、父は言う。ぴくり、と、不快そうにルッチの眉が跳ねた。己をそこらの小悪党と同類扱いするのか。矜持を傷つけられ、しかし父相手にどうこうすることはない。

「……正義とは、どのような感慨を持てば宜しいので?」
「付いて来い、ルッチ」

かつん、と、あえて音を立てて踵を返す、父の背。何事か何も分からぬが、それでもルッチは従った。




「エニエス・ロビーがなぜこの島に作られたか、考えたことはあるか」

長い回廊を只管歩く。この道は、覚えがある。彼女の塔へと続く道。なぜ父がこの道を知っているのかと疑問に思うが、かつて父とて訓練生だったはず、それを思えば知らないことも、ない、か?
いやしかし、何か不吉な疑問がルッチに過ぎった。

「史実までのことでしたら、知っています」

振り払うように父の疑問に答えれば、父は「未熟なことだ」CP9になるべく者の言葉ではない、と、切り捨ててくる。

「夜の存在せぬ不夜城。激流に周囲を阻まれ、出入りの困難なこの島を、あえて罪人を裁く正義の門を置いた理由を考えろ」

父の足は速い。回廊を渡り響く靴の音。

世界政府発足より800年、一度たりとも落ちたことのない土地はこのエニエスのみだ。
海軍本部のある島も、聖地と呼ばれるマリージョアも、かつてただ一人の「悪魔」に壊滅寸前に追い込まれたことがある。

父の足は、「彼女」の部屋の扉の前で止まった。重々しい、豪華な扉。来るのはまだ一月もあいていないのに、ルッチはもう千年も焦がれたような、そんな心持ちがした。身のうちにのたくう獣が唸る。彼女の眠る顔、頬に浮かんだ睫毛の影が、ありありと思い出される。
この扉の向こうに彼女がいるのだと思えば、ルッチの胸は高鳴った。そんなルッチを知ってか知らず家、父はゆっくりと扉に手をかける。

「理由など、ただ一つ。我等が、正義であるためだ」

扉は開かれた。木漏れ日のような光、燦々と降り注ぐ、室内とは思えぬ、室内。春の空気に良く似た、気配。
部屋の中の、美しい椅子に腰掛けて眠る、美しいひと。

扉の前に佇み呆然とするルッチを、父は見下ろした。

「彼女を、縛り付けるために、最も相応しい場所であるために。エニエスはこの地に作り出された」

父の声は、どこまでも冷え冷えとしていて、この部屋を凍りつかせそう。ルッチは彼女に近付いて、膝を折る。
穏やかな顔で眠る彼女は、記憶にある以上に美しく、愛しい。

瞼に触れた。父は何も言わない。
柔らかな感触だ。こんなものがこの世に存在することがルッチには信じられなかった。このひとの正体を、どうやら父は知っているらしい。問おうと振り返れば、父がそれより先に口を開いた。

「パンドラ。 世界の罪人であり、正義が、正義である証だ」

あまりにも、無造作に父の口から放たれた名。この人の、「彼女」の、名。パンドラは、神話にも出てくる女の名。神々の贈り物の娘。しかし、愚かしいという別称もある、ルッチは立ち上がった。

「なぜ彼女が罪人なのです」
「それをお前が知る必要はないし、知ることはないだろう」
「しかし、父上」
「夜の帳が彼女を目覚めさせる。永遠に、眠り続けねばならぬ「罪人」であり、「正義の証明」それこそが、彼女だ」

きっぱりと、はっきりと、父は告げる。それが全てであると、唯一の、事実なのだと言い聞かせる言葉はこれまで訓練場で学んだどのような「正義」「道理」「真実」よりも重々しくルッチに響いた。

「世界のあらゆる悪から彼女を守れ、ルッチ。彼女が我等以外のものの手に渡れば、途端我等は「悪」となるだろう。正義とは、そういうものだ」

ルッチには、父が何を言っているのか、わからなかった。いや、言葉の上の意味はわかる。しかし、全てを納得するには、まだ、父はルッチに隠していることが多くある。一体、彼女は、パンドラ という人は、何をしたのだろう。何者であるのだろう。なぜ、眠り続けることで正義の証明になるのだろう。分からぬ、ことばかりだ。

「パンドラ」

そっと、手を伸ばして触れてみる。柔らかな肌。吐息さえ感じられそうなほどの、生々しい、ひとの躯。

「パンドラ」

名を呼べば、己の心の最奥が、何か満たされるような心持がする。これまで得ることのできなかった幸福感。ルッチは夢中で名を呼んだ。

父の言葉の真意は知れぬ。けれど自分は、ロブ・ルッチは、彼女を守ろうと、思った。彼女を世界の「悪」が狙うのなら、彼女がここに存在することで、自分は正義となり、彼女を守る権利を得られるのであれば、自分は正義を掲げようと。
彼女がここにいてくれるのなら、彼女を縛り付ける正義であろうと。そう、誓おう。

細い指に己の指を絡めて、ルッチは目を伏せた。

(絶対正義の名の下に)


and that's all?




(定義付けされた正義のために悪を地の果てまで追いかける)