真っ赤な空を見ただろうか
眠れない、と言うとミホークは手を引いて甲板に連れだしてくれた。
真黒な空は少しだけ恐ろしく、震えていると抱きしめられた。
どう考えても香水やら「良い香り」のする男ではなくて、それでも僕はミホークのにおいを嗅ぐと安心できた。ほっと息を吐いて前に回された腕に手を添える。二人でデッキに座り込んで、空を見上げた。
「あれがオリオン、あれが白鳥座、あれは、」
一つ一つを指さして、ミホークがゆっくりと教えてくれた。
星のこと、昔はよく覚えていたのだけれど最近はすっかり忘れてしまった、と言っていたが、それでも僕よりミホークの方が詳しい。
どうしてそんなに知っているの、と聞けば「海賊だから」と答えられた。ミホークも海賊だったのだと思いだすたびに僕はなんだか面白くなる。それで、ミホークは星座を教えてくれた。
静かに揺れる船に、時折なる海の声。さざ波、鳥は眠りについているのに、今この海底遥か遠くでは夜に息をする生き物たちが行動をしている。
僕はミホークの手を取って、その大きな手を広げて見た。
よく触る自分の手のひらや、サカズキの手とも違う。サカズキはとてもきれいな手をしている。
ミホークの手も大きいが、自分のものと比べるととても固い。じっくりと手を触って見た。僕の指と全然違う。
ぽん、と、僕は自分でミホークの手を頭の上に乗せて見た。男の人の手は、たいてい重いけれど、ミホークの手は重いのに、重くはない。
それでキョトン、と首をかしげ、身を捩ってミホークを振り返った。
「竹刀だこ、ミホークにもあるんだね」
「ささくれ立った手だ。あまり心地の良いものではあるまい」
この手が何者をも斬り伏せ、何をも打ち砕く。
そういうミホークの声は少し平板にすぎると思った。
ミホークは僕の前では剣を抜かない。一緒にいる時に何か騒動があっても、剣を抜くことをしなかった。
だから未だにミホークが世界一の大剣豪、だというのを聞いてもどこかぼんやりと霞む。
それでもミホークより強い剣士なんていないのだと信じ切ってしようのない心ああるのだから、自分はとてもミホークが好きなのだとよくわかった。
ゆっくりと息を吐いて、ミホークの胸に頭をつける。キラキラ月明かりで光十字の飾りを見ていると、ミホークの指が僕の首を撫でた。そこには真っ赤なバラがある。
触られたとしても痛みなどはないけれど、でも、ドフラミンゴやルッチが時折、何か忌々しいものでも触れるかのように扱う薔薇を、ミホークが触ったことが少し意外だった。
それで顔を上げると、帽子の影になってあまり見えぬ顔、しかし見える口元の顰められたミホークが、ぽつり、と呟いた。
「どこにも行くな」
小さな声。だが、弱々しさはない。ミホークにはそういのは似合わないから、たとえ弱々しい声だったとしても、きっと僕はそうは聞かないのだろう。僕はキョトン、と、目を丸くした。
「行かないよ」
時々、ミホークは妙なことを言う。
海軍本部に僕を迎えに来るのはミホークで、そして僕を本部に送り届けてどこかへ行ってしまうのも、ミホークだ。いつも僕を置いてどこかに行ってしまうのはミホークだ。
鷹、鷹、鷹の目。鋭さ、がその由来になっているのだと以前誰かが言っていた。誰が言ったのかは忘れてしまったけれどその時に僕は「違うよ」と口をついで反論した。
ミホークが鷹だなんて呼ばれているのは、目、は、確かに鋭い、だから“目”の名称が入っているにしても、鋭いだけなら鮫だってそうだし、殺人鬼だってそうだ。鬼の目、でもいいはずだ。
でも鷹。鷹なのだ。だってミホークはとてもとても自由だから、どこにでも行くから、だから鷹なのだと、僕はそう思っていた。
ぽつり、と呟かれて僕は顔を上げる。僕はミホークの怒った顔というのは見たことがないし、戦っているところも見たことがない。僕の知るミホークの顔は、いつも優しい。
笑顔、ではないのだけれど、やさしい。ミホークは僕にとても優しい顔をしてくれる。
見上げた顔がなんだか少しだけ、いつもと違っているように思えた。
「泣いてるの?」
「いや」
だが、苦しいこともある。と、そういう。
「ミホークでも苦しいことなんてあるの」
「ある。何ものをも恐れぬのは化け物だけだ。おれは人間だ。どこまでも、人でいる」
ミホークは悪魔の実を食べていない、数少ない知人だった。グランドラインに生きる歴戦の勇士たち、そのほとんどは悪魔の身。鷹の目ほどの人生だったら、悪魔の実を口にする機会など多々あったのだろうに、それでもミホークは未だに人の身のままでいる。
悪魔になる気はないと、以前教えてくれた。悪魔の実の能力者が悪いと、そういう概念を持っているわけではないが、しかし、己はけしてそうはならぬと、そう決めているのだと言っていた。
どこまでもどこまでも、ただ人、地面を歩き、灰になる人間で良いのだと、世界一の大剣豪がそう言う。その心は、僕にはわからなかった。強くなりたくて強くなった、のなら、それが人ではなくなるとしても、力を求めるのが道理なのではないか。
「ミホークは何が苦しいの?」
「聞いてどうする」
「不思議に思っただけ」
言いたくないなら言わないでいいよ。そういえば、頬に触れられた。キスでもされるんじゃないかと(ミホークなら別にいい)思うほどに顔が近付き、ミホークの目の中に僕が映っていた。
どうすれば、そなたを救える。
やや剣呑な声で言われた。ミホークは僕に優しくて、あまりこういう声を出したことはない。でも時折、ふと、そういうこともある。たいていはサカズキに殴られたあと、冷えたタオルを当てながら「なぜ」と呟く声がそういう剣呑さを持っていた。
僕はきっと、ミホークのことをよく知らないのだろうと、こういうたびに思う。どうしても、知りたいと思うことがあまりなかった。ミホークのことだけではなくて、ルッチくんや、アイスバーグのことだって、別に知りたいと思ったことはなかった。だから、こうして、どうしてミホークが、僕を救えなくて苦しいのかがわからない。でも、やはりわかろうとは思わなかった。だから僕は魔女なのだろうかと、そういう風に思うこともある。どうしてただの小さな女の子のように、自分を大切にしてくれる人を、同じように大切には思えないのだろう。
「いっしょに死んでくれる?」
ふわりと、微笑んだ。笑おうと思わなくても、笑ってしまった。すぅっと心が安らいだような気がして、僕は目を伏せる。ミホークの手が離れた。そのままゆっくりと、ミホークが帽子を僕にかぶせる。大きな帽子はすっかり、視界を暗くしてしまった。
僕はロクな生き物ではなくて、真っすぐに歩いている人間を、知らぬうちにどこぞに迷いこませるらしい。らしい、というのは、やっぱり僕にそういう自覚はなくて、以前、司法の塔の坊やに言われた。その子供は、別に僕を憎んでいるわけではなくて、逆に、僕を段々と、あいしてしまっているらしい。それでも、だからこそ、それが恐ろしい、おぞましいことなのだとわかっているから、そんなことを言うのだ。
その坊やは、ミホークの「優しさ」はやさしみではないとも言っていた。ではなぁにと僕が聞くと答えに困っていた。その顔がとてもかわいらしいので僕は「なぁに」と何度も聞いた。最後には悔しそうに歯を食いしばって、子供は「いちばんかんたんなものじゃ」と、それだけ小さく答えた。
そうかもしれないと、その時に僕は納得してしまった。だからきっと、ミホークがとてもすきなのだとも、わかった。けれどそれで、どうだというのか。
「ミホークなら、一太刀で僕を殺してくれるね。痛みもないし、きっと、楽に死ねるね」
黙ってしまったミホークを構わずに僕は続けた。声が弾む。生きること、死ぬことにあまり興味はない。でも、一緒に死んでくれることにはとても興味があった。
本当に、ミホークがいっしょに死んでくれたら、困るかもしれない。でも構わないのかもしれない。それが僕にはどちらでも、結局はおんなじようなもののように思えて、ぎゅっと、ミホークのシャツを掴む。
「ぎゅって、して。頭を撫でて、手、繋いで。ミホーク」
言えば、その通りにしてくれる。それでも僕といっしょに死ぬことはしないのだろうとはっきりと分かっていた。僕はミホークの大きな掌を手のひらに感じながら、海の中の魚を思い出す。
「ごめんね」
「なにを謝する」
「ごめん」
「」
名前を呼ばれて、そのまま抱きすくめられた。僕はきっと、もっともっとひどいことを平気でミホーク以外のひとにしてきたのに、それでもミホークに、とてもひどいことをしてしまったのだと、悲しくなった。
それなのに、何をひどい、と思っているのかはわからないのだ。しようのないことなのだ。
百年くらい生きていると、何がひどいのかわからなくなると、巨人族が言っていた。二百年くらいすると、何が苦しいのかわからなくなると、言っていた。三百年経つと、何もかもが面白く思えるのだと、言っていた。
でも、四百年くらいすると、心が病んでしまうのだと、真剣な目で言われた。じゃあ僕はどうなの?と、そう幼い目を向けて言った途端に、何もかもがなくなった。それはもう、ずいぶんと昔のことだ。
僕は顔を上げて、ミホークの指を一本一本手で触り、爪に触って、口付けた。
ぴくり、とミホークの指が動く。
「痛い?」
「いや」
「嫌?」
「いや」
「苦しいの?」
「あぁ」
頷いて、そっと、息を吐く。僕は手を離して、そしてまたゆっくりと僕の頭を撫でるミホークの手のひらを感じた。ミホークはやさしい。やさしいのは簡単だ。とても造作のないことなのだと、ただ甘やかすだけなら一番楽で、一番おいしいところどりだと、そう、言うひとがいる。でも本当に楽で、本当に簡単で、本当に、その優しさが、諦めているからこそ、なら、ミホークの手がこんなに、さびしいわけはないと僕は思った。
Fin
一人称一人描写に挑戦してみました。ヒロインの外道さが際立ちましたね。