白い大理石の回廊を過ぎ行けば静か・涼やかな庭園。バラに囲まれた硝子の空中庭園が、ここ、マリージョアにはある。周囲には厳重な警備。海軍・政府の役人問わず四方八方を取り囲み日夜の監視体制は万全だ。猫の子一匹侵入できぬ、難攻不落のその場所は、ある意味エニエスロビー以上に「墜ちぬ場所」であるべきとされていた。
その庭園に足を向ける、背の高い海兵が一人。将校クラスであることを知らしめる「正義」を背負うそのコート。目深にかぶった帽子と、フード、という奇妙以外の何者でもない井出達が、しかしその人にはよく似合う。その男、彼、は、数年前に大将の座についた、赤犬・サカズキである。
カツカツと軍靴を鳴らして歩く。意識すれば足音など容易く消せるが、それをしない。油断、などではとてもなく、彼はただ、歩くだけ。十分すぎるほど十分に日光を遮断しているので顔は分からぬ。どのような表情を浮かべているか、悟れるだけのものが一切ない。ただ無機質に淡々と前進しているようにも見えるし、しかし、どこか苛立っているようにも見えなくも無い。
通りかかり、行過ぎる海兵・役人達はサカズキの姿を見るとかしこまって姿勢を正す、それに一々礼儀正しく答えるのは、文字通り礼儀正しいからではなく、ただの条件反射、いや、そうあるべきものが筋であるという彼の性質的なものらしかった。事実、通り過ぎて一歩でも歩けば最早誰にどう言葉を返したのかさえ、サカズキの知るとことではない。
コツン、と、足を止めたのは硝子庭園の中にさらに設計された小さな家。マリージョアの“事情”を知る連中は箱庭などと呼ぶ場所。家、というほど立派なものでもない。ただ扉があって、その向こうに簡単な寝台(しかし天蓋つきの、夢のような可愛らしさのあるもの)が一つあるのみの、部屋というにもおこがましい空間である。サカズキはその白い扉の前に立ち、目を細める。
将校達の噂話。海軍・政府の常識である、罪人が数年前に捕えられた。海賊王ゴールド・D・ロジャーの船で目撃されてから二年間ほど行方知れずになっていたのが嘘のように、当然と一人の海兵の前に姿を現し、そして捕えられた。
捕えたのはサカズキだ。冬の刻印を扱えたから捕獲することが出来たのだと、彼は承知している。己の身ひとつでどうこうできると思うほど、サカズキは傲慢ではない。
そうして捕えられたは当然エニエスロビーに一時幽閉されていたが、しかし、彼女の本体であり、世界が何があっても守らなければならない、パンドラがそこにはいる。魔術師と魔女を引き合わせてはならぬと、目覚めぬだろうとは思われるが。目覚めぬという確信のない事実。危ぶまれぬ問題は数多くあり、は暫く経ってこのマリージョアに移された。連行に付き添ったのは、当然サカズキだ。それとクザン、ボルサリーノまで出てきたほどであるから、彼女の危険性が知れるもの。そして連日連夜の監視体制。上層部たちの追及。狂科学者の実験。四百年前に死んだ娘の体で生きるは科学者の格好の教本となった。檻の中で飼われる怪物以下の扱いを受け数年。当初はどうしようもなく凶暴で、サカズキが魔術を封じていなければ容易く、マリージョアは沈められていただろうというは、次第に威勢を失った。(暴れる彼女の前に、元帥となったセンゴクがロジャーの頭蓋骨を突きつけた、というのも理由の一つかもしれないが)食べることも、言葉を話すこともないその生き物となったを顧みたのは、彼女が「海賊」であった頃を知るという将校一人だけだ。老いたが豪快さは増すばかりの、粗忽で粗野な、しかし太陽のように笑う男。今はサカズキの方が地位が上だが、かつての上官である、世話になった覚えもあるその男、ガープの行動が、僅かでも彼女の陰りの進行を遅らせたかどうか、それはサカズキの知るところではない。最近は、孫が生まれたらしく以前より訪れる回数が減っているのだとは聞く。
その、ただの息をする死体となったに先日変化があったそうだ。
しあわせうさぎ
「気でも触れたか」
報告を上げた海兵を一瞥してから、サカズキは感情の篭らぬ平板な声で呟いた。やはり上官と同じように帽子を目深に被った(しかしこちらは海兵の帽子ではない)海兵はサカズキの言葉を独り言と承知しているようで何も言わず、報告書を渡し終えた直立の姿勢真っ直ぐに、黙っている。
この部下は、サカズキの子飼いではなかったが、それでも目をよくかけていた。将官に上がるにはまだ足りぬ佐官ではあるけれど、いずれは上がってくるだろうと容易く予想の立つ人物である。
サカズキは書類を机に置き、ぎしりと椅子を軋ませて背を凭れた。目を細めて思案する。らちもないことと一蹴にするのは己の判断だ。それでよい、十分だと思う。しかし、上はそうはしなかった。
「叫び声を上げたのは一度きりか?」
「はい。一週間前の夜明け間もない頃のこと、以来扉に、その、魔法、をかけて一切の干渉を拒んでいます」
報告書にも確かに合った内容だが、こうして部下の口から聞くとさらに思うこともある。ディエス中佐はの存在、理由を知っているが、どうも長年の常識(グランドラインを知ってはいても)からの扱う力について抵抗があるらしい。言葉にするのを多少躊躇うのがサカズキには好ましかった。あれの力を「魔法」だなどと言い出したのは先人たちだ。しかしベカパンクやサカズキからしてみれば、あんなものは立派な「科学」である。しかし理解することを一切諦め、最初からそのようにばかげた名で呼び安堵するその容易さに甘んじた連中がサカズキはどうも納得いかない。その点、ディエス中佐は海軍にいながら、の存在を知らされていながら、あれの使う力を「魔法」と呼ぶことに違和感を持っている。その一点があれば、いずれ真実を知る可能性もあるだろうと、それは優秀だと思うサカズキである。
「なるほど、元々死体に食事も排泄も必要ないか。放っておけばいいものを……態々私のところまで持ってくるとは。五老星も元帥も、あれを甘やかしすぎている」
たかだか一週間程度。孫娘か何かのヒステリーじゃあるまいし。行方知れずで海を彷徨われていた数年前ならいざ知らず、居場所ははっきりしていて、自ら監禁状態に陥っているのなら、全くもって問題などないではないか、と、それがサカズキの主張。しかし、まぁ、上の六人(と、なぜか最近七武海に入った二名まで)大事だと騒ぎ立てる。不敬な言い回しにはなるが、大げさなとサカズキはうんざりした。あれは、あの生き物はそうあるべきもの。本来なら姿を持って世界を歩き回ることすら許されぬ、大人しく首でも括って、それでも死ねぬのならその縄を茨に変え棘の痛みで苦しんでいるべき生き物。
「騒ぎ立てる方がどうかしている」
「では、如何なさるおつもりで」
しかしいくらサカズキが下らぬと一蹴にしたところで、しかし、正式に要請が来てしまったものはしょうがない。態々、五老星と元帥の連名で送られて来た指令。仰々しいことだが、訳せば容易く「の機嫌を伺ってきてくれ」と。呆れとおして、怒りさえ沸いてくる。
そうして、そういう事情の下、サカズキがいろんな仕事をきちんとこなし、まぁ時間を何とか作って(八割がた嫌々)この箱庭を訪れたのは、指令を受けた一週間後。その一週間で何とか事態は変化してくれないかと、そういうことを考えたが、やはり状況変わらず。やっと足を向けたのも遂に直々にやってきたおつるさんに「頼んだよ」と言われてしまったからである。サカズキはおつるには弱い。めっぽう弱い。サカズキだけではない。海兵は、いや、七武海でさえ、彼女にはきっと、勝てない。いろんな意味で。
じっと見詰めた白い扉。相変わらず茨の棘で覆われた、扉。サカズキのしるしによって一切の魔力が使えないはずだが、しかし、それでも三つばかりは扱えるらしい。どういう仕組みか、たしか先日博士が解明したはずだが、生憎多忙でまだそのレポートを読んでいない。
「造船技師の死体は間違いなく海に沈んだか」
部屋の中の変化はなかった。しかし、ぽたりと、サカズキの頬が綺麗に切れ血が滴った。白い襟が赤くなる。馬鹿らしいと、サカズキは一人ごちた。全くもって、労力の無駄だ。しかし人は「何故」とそう、言う。こんなにも、この生き物は分かりやすいのに。
に変化のあったという時、ウォーターセブンで捉えられた罪人が一人処された。魚人の、トムというしがない造船技師。沈み行く島に構え、先日海列車という、人々を照らす灯台以上のよるべを作った、しかし、罪人である。その罪人、どうやらと縁があったらしい。一つ二つではなく、かなりの数の。
捕えられた身ではあるが、それでも彼女に甘い上層部の連中、多少の自由は許していた。反抗的な眼が中々沈まなかったのは、その甘さゆえの道理である。デッキブラシで空を、海を行きながらが好んで赴いたのは造船島。そこで何かあったらしい。科学者たちに切り刻まれようとなんだろうと、嬉々として向かう姿をガープが何か涙ぐんで見ていたが、まぁ、それはどうでもいい。
「下らん感傷だ」
なぜ誰も分からぬのだろう。彼女が変わる理由、何かを、思うこと。その仔細がサカズキには、分かる。しかし分かるからと言って何か思うことがあるわけではない。分からぬ人々は首をかしげ、眉を顰めながらを理解しようとして、そして、出来ぬのだと、どこかで思っている。サカズキは、理解していて、だから、どうしたと、それだけだ。
「お前は800年を生きた。人の死など、億を千を越えるほどに見てきたはずだ。今更、たかが一時、十年に満たぬ時を過ごした相手の死を嘆くのか」
埒もないこと。取り合うほうがどうかしている。
しかしサカズキ以外の生き物は、彼女を案じているのが事実だ。この状況が長引くことを、望んでいない。
サカズキはドアをけり破った。薔薇の刻印を持つサカズキにの“魔法”などきかない。派手な音。それで騒ぎ扱いされるのは、サカズキ以外の人間がここにいる場合のみだ。
白いベールのような、天蓋。枯れぬ薔薇の花弁が敷き詰められた、部屋の中。ベッドの中、ではなく壁に蹲っている小さな、少女。乱暴に扱ったらしい、もとは精巧な硝子細工の類が無残に割れ落ちている。素足の少女のしたに落ちた破片は容赦なく皮膚を傷つけている。ずっとそこを動かぬのか、赤黒いものが瑞々しさを失い。破片とともにそこに凝着していた。
硝子に覆われた箱庭の中には、必要以上に光が入る。キラキラと輝くの髪に変化はないが、それでも、手入れもされぬぼさりとした髪。蹲った腕からは、爪のない指が数本見えた。
(無様だな)
凄惨な有様。胸を痛める者もいるだろうその光景、しかしサカズキの胸中、この程度である。
ぴくりとも動かぬ、。彼女がどんな顔をしている生き物だったが、サカズキは思い出せないが、気にもならない。だが、自分以外の生き物は、を見て「美しい」とそう言う。そして、その顔に笑顔を、と、そう求める。海賊王とてそうだった。処刑される直前、あの男とサカズキは言葉を交わした。何が望みだと、他意もあったが、ただの好奇心もなかったわけではない。世の条理を崩した、罪人。世界を騒がせるほどの男、憎悪によって悪に駆り立てられたわけではなさそうな生き物が、何を望むのかと。
男は答えた。何もかもを手に入れた。財宝も、名声も、一切。しかし、未だ手に入らぬ。魔女の微笑み。微笑なら見たと、男は言った。淡い笑み、消え入りそうな雪のような笑顔は見てきた。しかし、知らぬのだ、と。彼女の“えがお”はどこにもなかったと。
クザンも似たようなことを言っていた。悪魔の声だか知らないが(サカズキはない。そんなもの、聞こえたこともない)飢餓のように襲い掛かる焦燥感があるらしい。彼女の笑顔をと、求める。泣き顔など見れば、胸が張り裂けそうだと。一瞬、ではこの光景をいつもあの、だらけきった男に写真でも撮って見せてやれば多少は背筋を伸ばすのではないかとか、思い浮かんだ。
ぱきり、と、一歩前に進めば靴が硝子の破片をさらに砕く。砂のようになれば痛みも消えるだろう。そのままの足で、サカズキはの頭を蹴った。軽いボゥルのように容易く飛ぶ。がたりと、一度壁にぶつかって落ちる。酷いことをしているつもりは当然無い。手加減に手加減を加えているのだから、優しささえあるとサカズキは誰かに責められれば堂々と言える。
ぐったりと倒れたその首を掴んでつるし、ぼうっとした顔を眺めた。二週間ほど何も口にしていないらしいが、何も変化はない。それでも、泣きはらしたように赤い目、ぐしゃぐしゃになった、しかし美しさを一切損なわぬ顔があった。
「貴様、何のつもりだ?貴様の一切は政府のもの。この世界を作った正義が正義たる道理のために、貴様が悪として存在する必要がある。その為に貴様はここにいると自覚はあるか?それとも自分が一人の人間のつもりなのか?浅ましい!嘆いて何か変わるのか。私にはどうでもいいことだが、貴様が嘆けば案ずる者がいる。迷惑だ。黙れ、貴様はただここにいて、当たり前の顔をしていればいい」
長く時間をかけて説得などするつもりはない。やらなければならないことは多くある。つらつらとそれだけ吐いて、首を立てに振るまで締め上げればいいだけのこと。容赦なく責め上げることを、サカズキは許されていた。その為の大将の地位だ。
「……」
ぼうっとした、青い目がサカズキを見詰めた。苦しそうに寄せられた眉、はその小さな赤い唇で、ゆっくりと言う。
「ぼくをひとりにさせないで」
望むことはそれだけだと、小さな、か細い声が言う。震える瞼の裏側で何を望んでいるのか、容易い、ちっぽけなこと。カーニバルで親と離れた子供とて、一人きりにはならない。周囲には必ず、子供を護れる「大人」がいる。しかし、にはそれがない。誰も彼もが、彼女を置いて老いていく。それが道理だ。
しかし、それこそくだらないことだと、サカズキは切り捨てた。
「私は、お前を一人きりにはしない」
慰めのつもりなどなかった。ただそう告げれば、の眼が開かれる。そして、細められ、口元が小さな笑みを浮かべる。恐らくこれが海賊王の嘆いた微笑。諦めている、ばかげていることだと、その眼が、言う。けれどその気持ちは嬉しいのだよ、と、上から目線で言われているようでサカズキは腹が立った。しょうがないのでもう一度を殴り飛ばし、片目を潰した。どうせ治る。
「……いたいんだけど」
「当たり前だ」
小さく抗議を上げる言葉は無視して、サカズキはを落とした。容赦ない。受身も取らずに落下して、はもう一度眉を寄せ、首をさする。相変わらず冬の薔薇は喉に咲いていた。
「にあわない。やさしいこというんだね」
「私は不可能なことは言わん」
「でも、むりだよ」
笑う、小さな声。なるほど、道理ではある。永遠を生きるらしい、魔術師の影法師。永遠などあるはずもなくそれは比喩だろうとは思われるが、しかし、並の人間以上には生きる。既に800年、巨人族とて彼女には追いつけない。置いていかれるだけの老いていけない生き物。
しかし、下らぬことだ。この生き物に、自分は徴を刻んだ。その対価を払うだけの覚悟もあってのこと。彼女は、自分のものだ。
「私が死ぬ時、貴様も死ね」
はっきりと、言う。全ての起因。どんなことがあったとしても、サカズキがに何かを思うことはない。なぜなら、そう、思っているからだ。
純粋な驚愕での眼が丸くなった。青い目。古の海の色なのだそうだ。この死体の見た海の色だと、そう聞いたことがある。口が小さく開かれ、唖然として、そして、目を伏せた。
「可能だろう」
承知している事実。の身体は影法師。多少他人よりも丈夫に出来ているらしいが、それでも、致死量がある。元々は死体だ。“”は死ねる。しかし、それで何か変わるわけでもない。魂はパンドラの本体に戻り目覚めぬまま、時が経って、魔力によりが傷を癒すのを待つ。その眠りは百年とも二百年とも言われているが、十、二十の単位ではない。
「でも、目覚めたら君はいないよ。ひゃくねんごがあすになったったというだけ、ぼくはひとりだ」
「百年あれば悪魔の実とて再び芽吹く。私が、冬の刻印を扱えるものが、必ず貴様の前に現れる」
馬鹿らしいことではない。ベカパンクが証明していた。全ての物質は原子元素の集まりである。では今自分を構成している原子分子が一度は自然に戻り、そして再び人の形になることもあるだろう。百年以上もあれば。
「誓いが必要というのなら、誓ってやる。私は何度でも貴様に徴を刻み込むだろう。姿が違えど、記憶がなくとも、貴様が存在することで正義があるというのなら、私は私の正義のために」
震えるの肩が、次第に振動をやめ、そして、一度顔を伏せた。何を考えているのか、興味は無い。その事実を受け入れればいい、それだけだ。
「貴様の一切は私の物だ。」
Fin
(すき、すき、だいすき)