クローゼットの扉を開いて、ばたん、と、、何事もなかったかのように閉めた。早朝、すがすがしいお天気。今日は何をして遊ぼうか、Siiはちょっと留守にしているとクザンが言っていた。ガープのところに行っているらしい。それはどうでもいいのだけれど、うん、気を取り直して、もう一度扉を開く。
「……」
開いたクローゼット、赤犬が用意した衣服がそれなりの量となって整理整頓きっちり収められている。大きなクローゼットだ。靴や下着など、身に着けるものの全てがこの中に入っている。それはいい、それはいいのだけれど。とても大きな収納箱。それこそ、人一人が入っていてもおかしくないほどの、大きさ。
「よぉ」
何も言わぬ、いやいえぬの心中など察してくれぬ、やけに見覚えのある配色の、女性。青い目を細めてを見上げ、クローゼットに押し込められたひょうな狭苦しい体勢のままひょいっと、片手を挙げて見せた。









箪笥裏ロマン







じろじろと見渡されて居心地が悪い。、なんで自分が好奇の目にさらされるのかわからない。どちらかといえば自分がそうするべきなのではないかと思う。クローゼットから出てきた、背の高い赤い髪の女性。と本当によく似ている。びっくりしたのは一瞬で、次の瞬間には妙に、切ない慕情さえ湧き上がる。彼女が誰なのか、ぼんやりりとした予感さえあった。

「ふぅん、へぇ」
「なぁに、さっきから」
「いや、別に」
「気になるよ。大体キミは、」
「分かってるだろう?」
「……」

眉を寄せては黙る。分かっている、と言われればそうだと頷くしかない。だが頷いてしまっても良いものだろうかと、そう思うのだ。どう考えても、因果律とか等価交換とかそういう真理、森羅万象の類を堂々と足蹴にしているようにしか、見えない。

わりと常識はずれな行動をする己だけれど、それでも、承知の道理はある。この女性、この、生き物、このひと、そういう類からかけ離れてしまっているのだ。それで、いいのだろうか。

「一応聞くけど、何しに来たの」
「なんていうか、ノリ?」

蹴り飛ばしたくなった。ふるふる、とは肩を震わせる。こ、この、非常識の塊は何なんだ。自分だって、それはまともな生き物でもない。だがこの、この、赤い髪の女にしてはやけに背の高い生き物は、それ以上である。

普通、己が誰かにこんな翻弄されるような態度をとられれば、そう、普段の己であれば目を薄っすら細めて、何か、機嫌の悪いと悟られる言葉をぼそり、と吐く。それが常の己である、というのに、この女性、この、もう一人の自分を前にしてはどうもそういう気が起きぬのだ。これは困ったもの。この自分が、そんな風に他人に対して、妙な、礼儀をわきまえている。

「ころころ色々考え込むな。おれの方が階位が上なんだから当然の反応だろう?」
「人の心を読むのは止めて欲しいんだけど」
「心なんぞ読めやしないさ。ついでに空気もな」

いや、それは読んでくれと突っ込みたかった。はうーん?と妙なうなり声を上げて、腕を組む。

「階位ってなぁに?」
「何だ、知らないのか?」

お意外そうに言われはムッとした。随分長い時間を生きてきた己、ほとんどのことは出来るし、ほとんどのことを知っているという自負がある。それは、世間一般のこと、たとえば冬の寒い夜をすごすのに便利な道具エトセトラとかそういう細部はわからなかったりもするが、しかし基本的に「知らないのか?」とあからさまに言われるのは、気に入らない。自分の知らぬことを、他人が知っているのは構わないが、なぜかこの、もう一人の己にそうといわれるのは腹が立った。

軽く眉を上げていると、もう一人の己が面白そうに目を細めて笑う。そしてポン、と、その白い手をの頭に乗せてくる。

「そう膨れるな。ふ、ふふふ、可愛らしいことだ。階位というのは、なんだ、魔術師の階級だな。おれはDaahtで、お前はGeburahのようだが。まぁ、正確に言えばセフィロトの外であるアビス、Daahtに階位の上下はないんだがな」
「?分かる言葉にしてくれる?」
「生命の樹だ。お前もあの王国で守ってきただろう?」

きょとん、と、当然のような顔で、なぜ通じぬのかと首を傾げてくる。記憶、をはたどったが覚えはない。アダムという大きな樹を兄弟子と一緒に上ったのは、知っているのだけれど。

「ふ、ぅん?」

もう一人のは奇妙な声を上げ、そしてひょいっと、を抱き上げた。小さな体、長身の女性に持ち上げられれば容易くあがる。

「軽いな。それに小さい」
「喧嘩を売りたいのならそこそこ買うけど」
「いろいろ聞きたいこともあるんだが、いや、うん、そうだな。ここはおれの世界の道理、ということでもないか」

何事かぶつぶつと口の中でつぶやいて、もう一人の、ひょいっと、を下ろした。なんだったのか、分からぬがしかし、何か、解られてしまったらしいと、それはわかった。が気に入らぬ顔をしていると、もう一人の、ふわりと笑う。

「Geburahは神々の力、宝石はルビーだ。色の赤はそのままお前によく似合っているぞ?」
「なんだか上目線なのか気に入らないんだけど、なぁに、このぼくを見下せるような生き物、いると思わなかった」
「ふふ、ふ、別に見下してなんかァないさ。可愛らしいと思ってるだけだ」
「ふ、ふふふ、その上目線が気に入らないんだよ」

階位がなんだか知らないが、この自分が、他人にこんな眼を向けられるのが気に入らぬ。はひょいっと腕を振ってデッキブラシを取り出すと、そこで、ふと、違和感に気づく。

「…あ、れ?」

はたりと動きを止めて、じっと、もう一人の己、背の高い真っ赤な髪を見上げる。もう一人の己、別世界の、、パンドラ・という生き物である女性。傲慢、存在、え、女王様?とノリノリの雰囲気はけして自分と同じとは思いたくもないが(あ、いや、傲慢属性は一緒だと自覚はある)しかし、同じ、王国の生き残り、魔術師、そして400年前に死んだ少女の体を借りて動く影法師、海の魔女であるはずだ。先ほどの彼女自身の言葉で、魔術師のランクというのもあった。だから彼女は、魔道の生き物のはず。だというのに。

「ふふ、ふ、ふふふ。道理に逆らっての地平線越えはおれの本分を超えるものだ。それ相応の対価をくれてやらねば出来ぬことだったのでな」
「……魔力を、捨てたの?」
「捨てた、というよりは奪われた、というのが正しいがな」

じっと見つめた、もう一人の己はやはり己と同じように青い目をしている。だが、それは左目だけ。もう片方、髪に隠れて見えないが、そこ、は。

が手を伸ばすと、もう一人のは触れやすいように膝をかがめてくれた。頬に触れ、髪を払い、そこを、左目の、眼球がはめ込まれていてるのが当然のはずの場所を、探る。

「……深淵の気配がする」
「あぁ、あぁ、そうだ。これはセフィラにくれてやった。ふ、ふふふ、不可視ゆえにしようのないことだ」

そこには何もなかった。奇妙な、空洞。血管が生々しく見えているわけでもなく、ただ、その部分は、ひっそりとした、闇があるような、そんな、姿。とて今は赤犬によって冬薔薇の戒めを受けている。魔力のほとんどは封じられているが、それは、封じられているというそれだけだ。このひと、この、もう一人の己には、魔力の気配が一切しない。元々はあったのだろうとそういう、予感はする。そして魔術師にとってとても重要な眼が一つ欠けてしまっている。

地平線、世界を越えることは神の所業。それを悠々とこなすことの出来る生き物は、世の生き物ではない。、己は確かに常識から逸脱した生命、倫理を頂いてはいるけれどそれでも、世の生き物だという自覚がある。所詮は檻の中の花であると、それは、いやしかし、道理なのだ。それを超えようとすれば、変質的なまでに己の世界を破壊し別の檻へ入ろうとすれば、大きなゆがみ、対価が必要となる。
にはできない。魔力をすてることなど、出来ない。そんなことをすれば、この死体の体は動かなくなるし、パンドラの体に戻ったところで、魔力がなければすごした900年の時が襲い掛かってくる。酸素を捨てるようなものだ、それを、この生き物は容易くやってみせている。

「なんで、どうしてそこまでするの?」

解らない。己は、この、今の世界から出たいとは思わなかった。他の世界があるというのは、魔道を扱うもの、真理の探求者、錬金術師であれば知る道理ではあるが、だからといって、どうだというのか。

「なぁに、ちょっと、な。会ってみたかったんだ」
「誰に?サカズキに?」

自分がもし世界を越えるようなことがあったら、きっと違う世界のサカズキにあってみたいと思うだろう。自分がその世界にいて当然ではなかったら、サカズキはどんな反応をするのだろう。自分に、どんな言葉をかけるのだろう。やはり今のように、酷いだけなのだろうか。

(そんなこと、しないけど)

自分は魔力や瞳を捨てることは出来ない。眼は映写機だ。この世の夜の全てを記憶している。それを捨てるなど、己には出来ない。だからこそ、もう一人の己がそれを容易くやってのけたことが信じられなかった。それほまでに強い思い、己には、もてない。

「誰?そんなものは決まっている。それは卿だよ、

名を、もう一人の己に、もう一人のに、当たり前のように名を言われた。その瞬間、になり、そして、もう一人のだった生き物は、地平線を越えてこの世界に現れた生き物は、、ではなくなった。かちゃり、と、そういう、世界の道理の決まった音。遥か頭上で繰り広げられるチェス盤の配役の定め、のような、掲示か、神託のような、奇妙な、道理がまかり通る。

また、は驚きに眼を見開いた。この生き物は、の(人には非常識とされる)常識をさらに超えている。魔術師であれば名がどれほどの意味を持つのかくらい承知しているだろう。それなのに、こうもあっさり、己が「」ではないと定めた。今の彼女、何の名もない。このままが眼をそらせば容易く存在をかき消されるほどの、儚い存在率になった。











「はい、おっはー」

てろっと両手を向けられて、サカズキ、額に青筋を浮かべた。突然目の前に現れた赤い髪の女。妙にその配色やら顔立ちに覚えがあるような気がするが、脳裏に浮かんだ顔はその女の隣で萎縮している。びっくりびくびくといつものように自分を見つめてくる青い眼を確認し、サカズキは眉を軽く動かした。

「……朝から何だ」

ベカバンクの人体実験での体が幼児化した、という過去は確かにある。その反対に成長しました、なんてことがあったところで驚くサカズキではないのだけれど、がしっかり存在しているのだから、そういうことでもない。では何かといろいろ考えて、なるほど、と、すぐに思い当たった。

「何だとは何だ。幽霊にでも見えるのか」
「とにかく退け、

寝台の上、ものの見事に女性に上に跨られているというのはあまり良い気分ではない。サカズキ、上に乗せるなら隅でおっかなびっくりしているだけでいい。
ぐいっといささか乱暴に腕を払うと、赤い髪の女がぴくり、と眼を見開いた。そして、愉快そうに笑う。

「ふ、ふふふ、ふふ、さすがだなぁ、サカズキ。おれが誰だか、疑わないのか」
「愚問だな。分かりきっている。貴様はだろう」
「ほう、じゃあそこにいるのは?」
「それもだ」

断言するその声に矛盾など含まれぬ。確信めいた物言いに長身の女の眼がゆがんだ。

「サカズキ、あ、あのね」
「説明はいらん。どうせこの女がずかずかやってきたのだろう」

ため息ひとつをはいて、サカズキは小さなの腕を引いた。そのまま腕の中にひょいっと収めこみ、いやみったらしい笑みを引いている女を睨む。

「で、何をしにきた?」
「そう警戒するな。まぁ、あれだ。可愛いの顔を見にだなぁ」
「帰れ」
「ちょっとくらい観光していたっていいだろ」
「自分のところでやれ」

にべもない。こちらのサカズキもやっぱりサカズキである。頷いてニヤニヤ笑う。

「別にを連れてくつもりはないんだがな。そう邪険にされると浚うぞ」
「茨の縄で締め上げられたいのか、貴様」
「ふ、ふふふ」
「え、え、えっと、ねぇ、サカズキ、あの、え?知ってる、の?」

困惑するのはただ一人だ。自分は魔道の森羅万象を心得ている。平行世界やら因果律やら云々かんぬんの道理を知っている。だがサカズキが思い当たったのはどういうことか。不思議そうに首かしげ、後ろから自分を抱きしめているサカズキを見上げるが、サカズキはじっともう一人のを睨んだままだ。

(機嫌、悪そう)

何がサカズキの機嫌をここまで損ねているのかわからないが(もう一人のが原因、というのはわかるが、それだけではないような気もする)サカズキが怒るのは、怖いし嫌だ。は不安に思って、ぎゅっと前に回されたサカズキの袖を掴む。

「説明の手間が省けて助かるよ」

もう一人のは悠々と言い、そのままどっかり、ベッドに座り込む。

「まぁ、なんだ。暫く世話になるから宜しく頼む」

ぶぢっと、サカズキの血管が切れたような、妙な音がした。




Fin