珍しいこともあるもんだと、部屋に入るなりクザンは驚いた。海軍本部、大将赤犬サカズキの執務室。どう考えても素っ気無さ過ぎるとしか思えない部屋、どこまでも合理主義に乗っ取った配置の中で唯一つ浮いた存在である真っ赤なソファ。この部屋を主の次に使用することの多い少女が「お願い」と元帥・中将に頼んで手配したもの。部屋の主であるサカズキは絶対にその存在を認めぬとばかりにこれまでクザンの知る限り、使用したことがなかった、はず。
「声くらいかけろ」
「いや、ノックしようと思ったんだけどね」
その、真っ赤っかなソファに座っているサカズキ、いつもどおりの無表情、室内なのに帽子とフードって、それはどういうセンスなんだろうかと長年の付き合いで疑問に思うが、そういえば一度も問うたことのないこと。ひょいっと肩を竦ませてクザンは一歩部屋に進み、そしてさらに驚く。
真っ赤なソファは入り口を背にしている。その為サカズキの後ろ姿しか見えていなかったのだが、それでも十分驚いた、しかし、さらに驚く事実。
「遂に観念したのか?サカズキ」
「何のことだ?」
とぼけてはおらず、わけのわからぬことを言われて不快そうな顔、声。え、だって、とクザンは続けそうになり、黙った。いや、でも本当、観念したんじゃなかったらこれ、一体どんなドッキリか。
サカズキの膝に頭を乗せてすやすや眠る、明るい髪の小さな子供。黒い睫毛が白い頬に影を落とす、可愛らしい女の子が、無傷でサカズキの傍にいる。
「具合でも悪いのか?」
よりにもよってサカズキが、に優しいなど、それ、どういう冗談だ。口を開けば「黙れ」「大人しくしろ」「私の後ろを三歩下がって歩け」のドS男。に会えばとりあえず殴るか蹴るか縛るかしないと気がすまないのではないかと思われるほどの非道の男が、己の膝にを乗せている。今日は槍でも降るんじゃないかと、いくらグランドラインといってもありえぬことを呟けば、サカズキが帽子の影で眉を顰めた。
「よくわかったな。それも悪魔の声とやらか?」
「え?何、ホントに槍降るの?」
「そちらではない」
「ってことは……具合が悪いって?何の冗談よ」
仮にも海軍本部の大将が、世界戦力の一つが体調不良、だなんて、どういうことだ。とりあえず突っ込んでみれば、サカズキが煩わしそうにの額に掛かった髪を手で払った。
「冗談であればいいのだがな。全く、面倒だ」
「……あー、なーるほど、パン子ちゃんの方ね」
「他に誰がいる」
合点のいったクザンがぽん、と手を叩けば、サカズキが憮然と問う。いや、紛らわしい。クザンは横たわっているの頬、確かに少々赤いような気もすると気付き、ならば己の冷気で少しはやわらげられるかと手を伸ばす。
「触るな」
「……なんでよ?」
が、しかし、ヒエヒエとした冷気を纏うクザンの指先が、の色づいた頬に触れる前に、ぱしん、と、払われる。言わずもがな、サカズキの仕業。さすがにちょっとだけムっとして見下ろせば、剃刀色の目が見上げてきた。
「死にたいのか」
「だから、なんでそうなるんだよ」
独占欲か執着心を見せている場合じゃないだろうと、さすがにそれを指摘しても自覚のない男なので無意味だが、クザンは眦を上げる。相性として考えても、サカズキの能力よりクザンのヒエヒエの身の方が今のには必要だろう。
合理主義のお前ならどっちが正しいかわかるはずだ、と、目で訴えれば、サカズキがすっと、懐から手錠を取り出した。海楼石のもの、それをに近づける。
「……!?」
触れるか触れないかの間際、それは砂のようになって崩れ落ちる。さらさらと、その砂をの顔に落とさぬように素早く動かして、サカズキは再びクザンを見上げた。
「馬鹿者が、これがかつては“悪意”そのものといわれた生き物だということを忘れるな」
理解したか、と、そう言って目を細める。、、パンドラ・の影法師。その力の殆どがサカズキによって封じられてはいるのだけれど、それでも、もともとが巨大すぎる存在。その巨大な力を普段は自身の意思によって押さえ込んでいるものの、今のように体調が悪くなり、意識が朦朧としている時には、その力のコントロールが出来ぬのだ。
なるほど、では今、その溢れてしようのない力を、サカズキが傍らで、触れていることにより抑えているのかと、そういうことらしい。面倒くさい、と言っていた言葉に思い当たり、クザンは納得するものの、そこではて、と気付く。
「……お前も、結構やばいんじゃねぇのか?」
サカズキは、の「魔法」の一切の効果を受けない。随分昔、サカズキがまだ中将でもなかった頃に手に入れた力が関係するらしい。その、力、血、冬の刻印。その冬薔薇がどれほどの免罪の効果があるのか詳しいことはクザンにもわからないが、それでもの力の全てが封じられなかった事実は知っている。それは、サカズキでは完全には冬薔薇を扱いきれぬと、そういうことなのだ。
力が暴走せぬようにと、必死には欠片も見えぬが恐らく、かなり無理をして今の状態を保っているのだろうということが想像された。
「構わん。どうせ、治る」
短く言い切って、そして「用がないなら帰れ」とにべもない男。
しかし、意識すれば、フードと帽子に隠れた顔、喉、かすれているように思える。それにどこか血の臭い。先ほど僅かに見たサカズキの手、そういえば、手袋、指先が赤く染まっていなかったか。
(そんなに大事なら、どうして)
ぐっと、クザンは喉まででかかった言葉をなんとか押し戻した。言ってどうなることでもない。自覚、この男は、本当に自覚を、していないのだろうかと、最近疑いたくなる。本当は、何もかもに気づいていながら蓋をしているんじゃないだろうか、この、臆病者と、そう罵ってしまえるのかも、しれない。だが、しかし、だからといって、どうなるものでも、ないのだろう。
「まぁ、俺がいても邪魔だろうから退散するけど。結局風邪なの?パン子ちゃん」
「だろうな。熱が上がりきればそれでしまいだ」
それまでは苦しい思いをするのだろうな、と、そんな呟きが聞こえたような気がするが、絶対に気のせいだろう。クザン、ふぅん、と相槌をうち、歩き出す。
「そんじゃ、まぁ、パン子ちゃんが治った時に食べたがるだろうメロン、用意しとくよ。サカズキちゃんと切ってやれよ?」
「林檎だ」
出て行こうとする間際の軽口、それをサカズキが一蹴するかと思いきや、会話になる。
「リンゴ?」
「用意しておけ。なるべく、赤い物にしろ」
「リンゴ、好きなの?」
怪我したとき、見舞いの品はいつもメロンか苺だった。前回は苺だったのでメロンを提案したが、そこでサカズキのその言い分。聞き返したものの、今度は独り言にされた。それでしょうがなく、クザンは頭をかき、やれやれ、と、息を吐く。
「了解」
短く言って、それで再び足を動かす。長い足だ。直ぐに部屋を出てしまう。それで、扉を閉める間際にもう一度真っ赤なソファの上のサカズキの頭を窺い見れば、やはり帽子とフードに阻まれて見えぬ男の表情。
真っ赤なリンゴを買ってきて、それで、サカズキが剥いてやるのだろうかとそんなことを考えた。は兎の形にしたら、きっと喜ぶだろう。
Fin
・いや、なんか突発的に書きたくなったんです。