運命の輪が回り始めた日
普段あまり近づくことのない、海軍本部の“奥”の方へディエス・ドレーク中佐が足を踏み入れたのは、まず先日の海賊討伐についての報告書が大将青キジの手にあるまま数日が経過した所為である。別段大捕り物ではなかったにせよ、しかし書類はしかるべき順序でしかるべき期間で処理されるべきものである。それでその書類を最終的に管理しなければならないドレークの友人(同期の男)が困り切っている顔を見かねて現在の行動、というわけではない。ドレークは青雉の管轄下の海兵ではないのだから、こうして青雉を訪ねるというのは少々、状況が合わぬというのが普通の見解だ。
海軍本部はそれぞれ様々な機関があるのだが、しかしその“上”は必ず三大将に行き着くようになっている。たとえば科学部の室長はベガパンクだが、上をたどればそこは黄猿の統括することとなっている。そういう風に、全ての部隊・海兵には所属の上司(直接的ではないにしても)の三大将がいるわけである。
そういった意味で言えばドレークの上司は行き過ぎた正義の定評を受けている赤犬サカズキというわけで、これから青キジを己が訪問することは、いうなれば所属を越えたこと。足を踏み入れるドレークの心にも若干の緊張があった。
しかし青雉の部下(と、辿ればそう言える)同僚が、心底困った顔で「なぁ、お前が新兵のころの恥ずかしい写真とかバラまいていいか」と近付いてきたものだから、これはもうどうしようもない。かすれる声で「要件は…」と聞いた時に傷んだ胃の痛みは初めてのはずだったが、なぜかその時、この痛みと今後とても深くお付き合いすることになるんじゃあなかろうかとそんな予感。まぁ、それはどうでもいい。
と、いうことで現在デュエス・ドレーク中佐殿、緊張しながら普段滅多に近づかない、海軍本部「奥」の棟、元帥・大将・中将・少将ら大物海兵たちの執務室のある建物へ入り込んだわけである。
静かな正午の昼下がり、穏やかな日差しが白亜のように白い建物をきらきらと輝かせる。海軍のイメージカラーは青と白、“奥”建築が最初に始まったのはもう何百年も以前のことらしいが、こうした白さを保ち続けることも正義を持続させる心の現れなのだという。そして海軍本部の建築物はまだ“未完成”らしい。もうすで完成形に見えている、と多くの者は思うのだが、未だ「作り足らない」らしく、どこぞで今もひたすら作り続けられている橋のように、この海軍本部も未熟児だった。時折ドレークは、その「未完成」と称する理由は、正義の形をはっきりと定めるものではないという暗示ではないのかと思う。何もかもがはっきりと固執されてしまって道理となる世ではない。海に出て犯罪者を取り締まる海兵・デュエス・ドレークはその不条理さを多々承知していること。だが、しかし、たとえどんなことがあろうと、正義は揺らいではならぬ。未熟な、世によっては多少の形・色を変えるかもしれないが、それでも「正義は正義」だと、そう海軍本部が告げているような、時折、そんなことを想うのだ。
ドレークは現在中佐、若すぎる出世だと周囲に言われている。今だ二十の前半。能力者ではない。己よりも強い海兵は多くいる。だが、半年前に中佐になった。悪魔の実の能力者ではない。が、先日上官に悪魔の身を口にするようにと告げられた。一度は断ったが、再度言われれば、頷くしかないのだということも分かっている。
そういう、どこか異例だと思われるドレークは、時々、正義の在り用を考えた。中佐になった。若いと周囲に言われる海軍海兵。危うい思想になるのでは、とそういう声があるのも聞いている。海軍本部は、何も実力だけが昇級への道ではなかった。年功序列、と言えば言葉は悪いが、長く生き世界政府の掲げる正義を噛み砕いての見込めるようにならなければ、上には上がれない。盲信的な正義を「行き過ぎ」と自覚していてなお、貫く心、がなければならない。
“絶対的正義の名の元に”
ドレークは、ディエス・ドレーク中佐には、まだ「絶対的正義」という意識が刻まれていない。そうなっているはずの階級にいながら、まだ己には迷いがあるのをドレークは感じた。だから、そうした迷いが本部が未熟児であるという予感や、様々な「多様化する正義の存在の肯定」を求めるのだろうか。
(おれは、)
立ち止まり、己の手のひらを見下ろしてドレーク唇を噛む。何かを、迷っているのだろうか。しかしそれが何なのか、がわからない。こうした迷い、友人たちは「若さって何だ!?」と笑いながら言うのだが、性分的にドレークにはそういうことができない。
ぐるぐるグルグル悩んでいると、不意に、目の前の壁が崩れた。
「な……っ……!?」
ガラガラガラガラと瓦礫の音。土煙り、立派な白い壁が物の無残な姿。ドレークは唖然として目を見開き、しかし、敵襲かッと警戒するように身を低くし、状況を見定める。
「貴様如きがこの私に口応えをするな」
状況のわからぬドレークの背に、剃刀のような鋭さを持った声がかかる。己に向けられた言葉ではないと即座に判じたものの、しかし、その声に聞き覚えがあり、ドレークは驚いて振り返った。
「大将、赤犬……」
崩れた壁の向い側にスッ、と立つ軍刀色の瞳の偉丈夫。逆光で表情こそ窺えぬのに、その全身から溢れるような覇気と闘気は生粋の軍人と言うにふさわしい様子。海軍本部が誇る最高戦力の一つに上げられる「赤犬」殿。その実力を目の当たりにしたことは未だドレークにはないけれど、しかし、こうして対峙しただけでもわかる、その覇気の強さ。
感情をむき出しにする粗野のある赤犬ではないから、こうしているのは、ただの牽制だとドレークにはすぐにわかった。なぜ本部にて大将がそのような状態で立っているのか、それはまだわからない。が、瓦解した壁、ガラガラと音をたてて、人の気配。
「このぼくに、指図するんじゃあないよ。大将風情が」
ふふ、と、小さな笑い声。憂いとも倦怠とも似つかぬ微妙な表情を刻み、瓦礫から身を起こす気だるげに見えるほど雅やかな挙措。暖色の髪の赤々しい、幼い少女である。
霜の降りたような眼を細め、口元から溢れた血を乱暴に拭う。ふわりと花の柔らかい匂いがドレークの方まで微かに香った。
壁に激突した時に強く頭を打ったのか、だらりと首に流れる血に、あちこち殴打の跡。幼い子供のあまりにも凄惨な様子にドレークは思わず顔を顰めた。その様子に気づいたらしい、少女がちらり、とドレークに顔を向ける。幼いが、目の覚めるような美しい顔立ち。マリージョアの令嬢たちの御用達という人形師とてこれほど美しいものは作れないというほどの、非の打ちどころのない貌。だが同時に、ぞくりと全身に恐怖が突き抜けた。何か得体の知れぬものに対峙した時の恐怖のような、もの。何のことかはわからぬのに、ドレークは一歩後ずさりかけた足が地を踏む前に、ぐっ、と何故かドレークは手のひらを握りしめ、後ろには下がらず、前に踏み込んだ。
それと同時に、少女のいた場所が燃え尽きる。誰の仕業かなど容易い。
「大将赤犬……!!!何を……!!!?」
「邪魔だ。退け、ディエス・ドレーク中佐」
バチリとはじける指先、白い手袋をした手を向けて、大将赤犬がまっすぐにドレークを見る。そのドレークの腕の中には小さな少女。とっさにドレークが抱えて逃げねば骨まで溶かされていただろう。
「ここはまだ貴様の来る場所ではない。己の分を弁えろ」
直接の上官から、聞いたことは、あった。大将赤犬のそばにいる、不思議な少女のこと。傍に置かれ始めたのはもう随分と昔だが、しかし、歳を取ることがなく、いつまでも変わらず幼い様子で赤犬のそばにいた。これはまともな生き物ではないのだといつからか人に知られるようになり、何か“危うい”から赤犬の傍にいるのだと、そう知られていた。
見るのは初めてだが、ではこの幼子がその少女なのだろう。だが、なぜいるのかはわからずとも、目の前で稚い子供が暴力を受けている。それを見過ごすことがドレークには出来なかった。目を細めて「行け」と促す赤犬に、無礼にならぬように片膝を付き面を下げて、しかし少女はその腕から放さず首を振る。
「確かに、私に事情はわかりませんが、しかし、このような幼い少女に、貴方は何をしているのですか」
「私を咎めたいのなら、この世界の正義を捨てて海賊か革命家にでもなることだな」
ドレークの言葉には答えず、冷え冷えとした赤犬の容赦ない声。それは、道理だ。大将赤犬、海軍本部の「大将」は正義の執行人。その人間を咎めることができるのは、それ以上の権力、あるいは、世の正義に威儀を唱えることを当然とした生き物だけだ。
海軍海兵である以上、中佐が大将を咎めるなど、できぬ。
しかし、ドレークはひるまなかった。相変わらず顔は床に向けたまま、己を見下ろす視線を痛いほどに後頭部に感じながら、言葉を続ける。
「私が大将を咎めるなど出過ぎたことは致しません。しかし、私にも正義があるからこそ、目の前でまだ稚い少女が、傷を負うのを黙って見ているわけにはいかないのです」
「その程度の軽薄な正義など見苦しいだけだが?」
容赦ない。ぴしゃりと冷水でも浴びせられるかのような返しに、ドレークは黙った。腕の中の少女は身じろぎ一つしない。あまり強く抱き締めすぎたかと不意に気付いて、顔を近づけると、大きな赤い目がドレークを映した。かがんだまま抱きしめたせいで胸に押しつけるような形となり、息苦しそうにしていたが、しかし、先ほどは赤と思えたその幼い眼は青へと変化し、他人を見下すことになれた支配者のようなものへと移る。
「気安くぼくに触るなよ」
侮蔑をはらんだ声。これまでドレーク、マリージョアの世界貴族や政府役人、高官などを見る機会が何度かあったが、その時傲慢だと思った彼らでさえ、今この少女の前では控えめだったのだ、と、そう思わされるような、圧倒的な、尊大さがあった。思わず声を失っていると、ひょいっと、少女がドレークの腕からすり抜ける。そして見下ろす赤犬に近づいて、口元を媛然とほころばせた。明らかに造り物とわかるそれに、赤犬の手が少女の首を掴み、吊るし上げる。
「捕らわれたのは貴様だ。敗北を認め、世に謝して首を吊れば良いものを、こうも浅ましく生き残り世に腐敗を撒き散らす……!!」
絶対的正義の体現者。ぎりっと奥歯を食いしばる音がドレークの元にまで聞こえた。きつく首を絞められ、わずかに眉を寄せながら、少女は、それでも口元だけは笑みを形作る。
「この身に剣を突き立てて世の終焉まで血を流し続けていたとしても、それが何だというの?」
それはこの世の全てを破壊するような悪意を含んだ声だった。絶望と拒絶が音の形を取って響き渡り、震わせる。少女の声は密やかに夜の庭でブランコを漕ぐ少女のようなあどけなさを感じさせながら、それでも世の敵意を受けるに足る悪意があった。
赤犬は乱暴に少女を床に叩きつけ、仰向けになった小さな肩を片足で押さえつける。肩が外れることを通り越し、砕ける音が鈍く鳴った。
「……っう」
「貴様が私に口応えなどするな」
さすがにこれには少女も顔を顰め、蹲る。とどめとばかりに赤犬は少女の髪を掴み上を向かせると、そのまま先ほどの瓦礫の中に放り込んだ。未だわずかに炎を残す残骸に少女の体が踊るように投げ込まれる。少女の絶叫がこだまして、肉の焼ける匂いがした。これはもう見ていられない、すぐに助けようとドレークは立ち上がり駆けだすが、その体が動かなくなる。
容易い、圧倒的な強者による覇気での抑え込み。単純だが、最も効果的である。ドレークは歯を食いしばって叫んだ。
「大将赤犬!!!!!なぜ彼女を!?」
「貴様に話す義務はない」
「今すぐ救出を……!!!死んでしまいます!!」
あの状態では自分で逃げることもできないだろう。炎の中から絶叫が続き、時々途切れる。パチパチと暖炉の中で薪が燃えるような、はじける音。その度に、少女の悲鳴がか細くなった。
ドレークは何とかこの呪縛から脱しようと腹に力を込めるが、びくりともしない。全身に汗をびっしょりとかき、ギジギジと歯を食いしばって、少女の燃えていく様を睨むように見つめる。あと僅かに前に進み、手を伸ばせば救える。なのに己の足は重く、体は固く、手も届かない。
少女の声が聞こえなくなった。わずかに炎の中で揺らいでいた体もぴたりと動かなくなり、ただ炎だけがよく燃える。ふらっ、と、体が軽くなったのはその時だ。慌ててドレークは瓦礫の中に駆け寄って、残骸をかき分け、その中に倒れる少女を探る。炎はドレークの身を焼き、痛みを訴えたが、そんなものは気にならなかった。
しかし、そこの背、その、首筋にピタリ、と充てられる鉄の感触。
「それに手を出すな。燃え尽きたところで死ぬことなどない。助ければ、貴様も罪人だ」
僅かでも体を動かせば胴体はそのまま首から上だけが林檎のように落下するのだと即座に悟らされた。紛糾されるに十分だという行いはどちらのものか、そんなことはどうでもいい。
たらりとドレークの頬に汗が伝う。返答を謝れば己の生涯があっさり幕を閉じる状況。しかし、己の本意でない言葉を吐く唇の持ち合わせなどない男、一度ごくり、と喉を鳴らして、ゆっくりと口を開いた。
「私にはあの少女が幼子に見えるのです。子供は、大人が守るものだと、そう教えられてきました」
「あれが“世界の敵”だとしてもか?」
「世界の全てが敵だとしても。差しのべられる手はあると、それが私の正義です」
「軽薄な正義はいずれ絶対的正義を阻む敵意となる。ならば今ここで打ち砕くのが私の正義だ」
淡々と交わされた言葉。ヒュッ、と剣の持ち上げられる音。ドレークは目を伏せて身を強張らせた。
瞼に浮かぶ、ぼんやりとした光景。幼いころ、一度だけ見た夢。まっ白い、夢のような場所で小さな少女が泣いていた。なぜ泣いているのかわからずに、どうしてやればいいのかもわからなかった己。だが、泣いているのが気の毒だと思った。どうにかしてやりたいと思うのに、何もできない自分がはっきりと分かっていた。
だから、海兵になったのだ。
ザシュッ、と、肉に剣が埋め込まれる音。だが、ドレークの身に痛みはなかった。訪れなかった。目を開いて、地面に流れる赤い血、己の足下にまで浸み渡る。
「……何の真似だ」
「……別に」
はっとしてドレークが振り返れば、いつのまにか、半身の焼け焦げた少女がドレークと赤犬の間に入り、ドレークに振り下ろされるはずだった剣を、その肩から受けている。ざっくりと肩から胸部にかけて切り込まれた切部分からはドクドクととめどなく血が溢れている。
身を動かした拍子に、からん、と、ドレークの懐の懐中時計が落ちた。真赤な血だまりの中に落下して止まり、金の蓋が開かれる。コツコツ動く秒針を少女が見下ろして、そしてふらり、と、その体が倒れた。
「……!!」
咄嗟にドレークが少女の体を受け止める。先ほど抱きしめた時には急いでいて気付かなかったが、軽い、羽根のように軽い、生き物だ。子供というのはこんなに軽いものなのかと、そんな疑問が霞める。
「貴様、これに何かしたのか?」
「……?」
「人を庇うなど、罪人風情が身も弁えぬ振る舞いだ」
ドレークへの問いの形を最初は取っていたのに、後半からはただの独り言のように聞こえた。ドレークが困惑していると、赤犬、ちらり、と少女を一瞥した。もうすっかり意識のない少女、ぐったりと血の気の引いた青白い貌をしている。
「連れて行け」
「……どちらまで?」
「貴様が決めろ。私はそれに構う暇などない」
冷たく言い放ち、そしてそのままばさり、とコートをひるがえして軍靴を鳴らし、去っていく姿。ほっと、ドレークは息を吐いた。腕の中の少女。そういえば名も知らぬ。罪人、と大将はおっしゃったが、こんなにいとけない子供がどんな罪を犯したというのだろうか。
世には生きているだけで犯罪者になる者もいる。だが、原罪などはこの世には存在しないのだ、というのがドレークの持論。性善説を唱えるつもりはないが、しかし、本当の悪人などはいない。だから正義があるのだと、そういう心。ぎゅっと、少女の体を抱きしめて、唇を噛んだ。
得体の知れぬ恐怖がいまもそっと肩を叩いてくるような、そんな予感がある。
Fin