ぱちぺちっ、と、軽い調子で頬を叩かれた。はっとして目を開けば、眉をしかめてこちらを覗き込んでくるクザンの貌。普段長身ゆえに間近で顔を拝むことなどない、珍しいねぇ、とぼんやり思いながら、寝起きのかすれる声が出る。

「なに?」
「いや、何ってお前さん。泣いてるんだけど」

答えるクザンの声、普段どおりの口調、何も変事ないと言えるもの。が、それでもいぶかしむ色が瞳ないわけではない。の異変、騒ぎ立てることができないからこその、その様子だろう。気遣い解ってしまえては己の頬に手を当てた。頬は、乾いている。当然、寝ていたのだから、湿っているのは目じりから耳にかけて。涙のあと。ははっと、は小さな声で笑った。乾いた声の、乾いた笑い。真っ赤なソファの上に横たえていた体を起こして、頭を振る。

「サカズキは?」

海軍本部、大将赤犬・サカズキの執務室。部屋の主の姿は眠る前にはなかった。今朝は確かに本部にいたのだが、が執務室を訪れた時は留守のようで、なら適当な海兵でもからかいに行こうとするのが普段。しかし今日に限ってはそういう気も起きずにソファで寝ていた。そして目覚めればクザンだ。あんまり寝起きに見てすがすがしい顔ではないけれど、まだサカズキに蹴り起こされなかっただけマシか。

「私の執務室だ。私がいるのは当然だろう」

クザンの体で見えなかった、大きな机の上に向かって羽ペンを動かす男のそっけない言葉。やれやれとクザンの溜息が聞こえて、退いて、それが見えた。

はなぜだかほっとして、たん、と、ソファから飛び降りる。そのまま、どういう衝動か知れぬのに机に乗り上げてサカズキに抱きついた。




呼ぶ声はいつだって悲しみに変わるから





完全に油断していた。隙があるような生易しい生き物になった覚えはないが、まさかこういう行動を取られるとは夢にも思わず、サカズキ、手に握っていたペンを落とし、飛び込んできた衝動をそのまま受けて後ろに倒れこむ。壁に頭を打たなかったのは当然としても、受け止めた小さな体が衝撃を受けぬようにとぎゅっと抱きしめてしまったのは、どういう冗談か。

「いきなり何をする。貴様、」

ぐいっと、首を掴んで引き剥がそうとするがぎゅっとサカズキに腕を回して強く抱きつき離れぬ。無理にどかせようとすればイヤイヤと幼子のように首を振って、よけいにしがみ付いてくる。

「おい、クザン、突っ立ってないで何とかしろ!」

こう身動きが塞がれてしまっていては冬の刻印を使うわけにもいかない。単純に引き離すというだけなら大将青雉にも出来るだろうと珍しく同僚に助けもとめれば、机の向こうの長身、気配が消えている。逃げたか、それとも妙な気でも利かせたか知らないが、余計な事を!としか思えない。

サカズキはぐいぐいと乱暴にを離そうとするのだけれど、ここにクザンがいないのならその必要もないと思いなおす。

「……どうした」

いつまでもこの体勢でいる気はないが、それでも、暫くは良いと溜息一つ。床に背を着けたまま天井を見上げ、海軍本部の天井は己の船より白いのだなと妙なことを考えた。船の天井は木製、白いわけもない。は首に回していた手をサカズキの両袖をぎゅっと握るように移動させていて、胸に顔を埋めて沈黙している。どうした、と問うたものの。分からぬ、ということは、生憎なかった。昔から、そうだ。この生き物に異変のあるたびに、サカズキには「なぜ」が分かる。トムという造船技師が死んだ時、東の海でみかんの好きな海兵が死んだ時、時たま起きるの情緒不安定。周囲には「なぜ?」と疑問に思われた彼女の全ての奇行、の原因、理由がサカズキには知れる。

状況判断に優れている、ということなのだろう。他に理由など思い浮かばない。悪魔の声に苛まれぬ己に、心あたりはない。冬の刻印を使用できるから、という可能性もないわけではないが、使いこなせていない己は本来の正統な使い手ではない証明、王国の魔術師との縁などないはずだ。

サカズキが声をかければ、びくり、と震える小さな頭。その髪にぽん、と手を置いて溜息を吐く。

「ただの夢だ」

吐く言葉、優しさなどない。ただの事実を突きつけるだけ。ロブ・ルッチやディエスであればもう少しましな言葉をかけてやれるのだろうかと考え、己の性分ではないと一蹴する。何を、らしくない。この生き物に慈悲など過ぎたことだ。

そう思っているのに、普段己を恐れておっかなびっくり顔色を伺い戸惑う顔をしてしようのない生き物が、必死に己にすがりつき震えていることが、サカズキの調子を狂わせる。

「こわいんだ」

かすれた声。嗚咽は混じっていなかった。そのことにほっとする己を忌々しく思い、サカズキは上半身を起こす。それでもは離れない。引き離されると思ったのかサカズキの背に腕を回して力を込める。そのつもりはない、と知らせるために頭に添えた手を撫でるように動かせば、やっとが顔を上げた。見上げる蒼い目。古代の海と空の色。本来は赤だった。真っ赤な目が、悲しみに染まって青くなった。

その眼が驚きに見開かれ、サカズキを見詰めている。私が頭を撫でたことがそんなに信じられないのかと、憮然と思うことはあるのだがあえて何も言わず、頭に添えていた手を腰に下ろし、もう片方の手でその頬に触れる。白い頬、柔らかい幼い子供のもの。400年前に死んだ少女の体だと、そう聞いているが、それが事実であるとはサカズキは鵜呑みにしていない。真実がどこにあるのか、なぜパンドラの体がエニエスに置かれたのか、昨今、気付けないサカズキではない。

「お前が恐れることなど、ない。お前は何からも傷つけられることはない。私がお前の心、体、その一切に悲しみを与えることを許さない」

暴いてはならぬ者。暴いてはならぬ物。多くある。彼女の全てが、そうでもある。けれど、しかし、知っている。サカズキは、知っている。知らぬ前には戻れぬ。知って、変わったことはない。だが、を知って、変わってしまったことはあった。それが、どうしようもないことなのだとは、思う。

ゆっくりと語る言葉。変わることのない約束。

「私はお前を一人きりにはしない」

小さく震える背。頭、迷い子のように戸惑うしかない生き物。どうすることも、己の全てを「忘れろ」と強要され、しかし同時に「忘れるな」とも突きつけられている。過去を語ることを禁じられ、見た夢の内容を話し悪夢を消すことすらできぬ、生き物。

「サカズキ、サカズキ……ッ」

目じりに大粒の涙をためて、ぎゅっと、縋り付く。小さな子供。これが、800年の長き時を一人きりで生きた生き物。それでも、ただの子供だ。何も知らぬのに、知っているのだろうと、まるで罪を押し付けられたかのような、理不尽を受ける。幼い、愛も知らぬ、未熟な子供なのに。

(生き残ったことが、罪なのだ。息を吸うだけで、何かを望むだけで罪になる。千年前に死ねていれば、絶望を知ることもなかっただろうに、これは死なずに生き残ってしまった)

あの時に、あの夜に死ねていれば、長い歴史をたゆたうこともなく、歴史の闇に被害者として葬られた。だが、パンドラ・は生き残ってしまった。そして、正義が正義であるための、罪人となった。パンドラ、世界に悪意をばら撒いた女として。匣を所持する生き物。

「泣くな、ばか者」

泣いて、どうなるものでもない。笑えば、どうなることでもない。なら何も感じることなく、ただ、世界が終わるまで眠っていればいいのにと、そう思う。棺に封じていたはずのパンドラ・を目覚めさせ、影法師を作り出したという400年前の水の民、子孫が残っているのなら全員海に沈めてやりたいとサカズキは何度思ったことか。

顔を上げたの目じりを指で拭って、そのまま脣を重ねる。びくり、と、生娘のような反応。逃げぬようにと腕で腰を押さえて頬に添えていた手で顎を押さえる。

そういえば、に口付けたのは初めてだった。




Fin




 

珍しくサカズキ視点。この男、本当は自覚してるんじゃないでしょうか。
さんはあれです、ノーランドの夢でも見てたんでしょうよ。