声を殺していればやがて悪魔も通り過ぎるだろう、などという妄信をもてるほどに無知にはなれぬ。しかしそれでも全てを承知なのかといわれればそうではないと胸を張って言える。そのことがまだ僅かに己を正気づかせているのだとしたら、あとどれくらいの時間が己には残されているのだろうか。考え、じっと、井戸の中を下る。このまま落ちればインペルダウンの井戸に出る。下に下がっているはずなのに、飛び出せる。奇妙なもの、しかしそれがこの井戸では道理であり、その仕組み、は知らぬ。知らぬままでいい。便利な場所とそれだけでいい。詳しく知れば、きっと己は二度とここを使いたくなくなるだろうというぼんやりとした予感があった。何しろ世の人々が「魔法」と呼んでそれ以上の理解を諦めるの力(サカズキやベカパンクは科学とそう呼ぶが)全ての事象にある因果律やらなにやらを独自のロジックを持って道理としているに過ぎぬ。で、あれば、本来ありえぬ「道」を繋いだ手段、どれほどの犠牲があったのか。考えるだけで、身震いもする。どこぞの国には巨大な砲を作り出すために燃え盛る釜の中に幼子どもを投げ込み贄とする。それで鉄が上手く結びつく、という、よくよく考えればそれ、他愛無い物質で代用出来るものだ。今だってそう、別にこの井戸を使わずとも、船なりデッキブラシなりに乗っていけばいい。だというに己はそれをせぬのだ。決まっている、それでは、人の眼に直ぐに触れてしまうから、己の保身の為に今、己は“赤い道”を使っているのである。
(これが魔女の悪意というものか)
己の欲の為に平気で他人を犠牲にする。しかしそれでももう、引き返すという選択肢は浮かばなかった。
「まぁ、それで卿が良いのなら、それはそれでいいさ」
「!!?」
驚いた、いや、胸中にとどめた呟きに返事があったことへの驚き、ではない。は目を丸くして、己と一緒に、いつのまにかとなりにいて当然という顔で、一緒に落下している、赤い髪の女性を見た。暖色の色の髪、己と少し似ているが、己よりももっともっと、燃えるような色、瞳は青。真っ青、これほどに青い色をは見たことが無い、というほどの、青さ。しかしそれは片目だけ。もう片方は今は黒い眼帯で覆われてしまっている。いや、それを外したところで本来眼球のあった場所は歪んで見えるだけだ。失ってしまった。このひと、この、生き物。
「え、ちょ……ど、どうしているの」
「おれはお前だろう?この道を知っていて何かおかしいのか?」
「いや、そうじゃなくて、どうしてここに、きたの?」
若干引きつり、声も上ずる。それも当然、この人、この生き物、どうしようもないほどの非常識の塊。この難しい状況下で一緒に居たくないひとナンバー1である。
名前はパンドラ・。通称はとそういう。そう、己と同じ名、同じ呼称の生き物。偶然、ではない。何と言う言い方が相応しいのか、このひと、紛らわしいので人には「パン子さん」とそう呼ばれている、やけに背の高い、ノリノリでドSな女性、もう一人の、なのである。ドッペルゲンガーというか、話せば長くなるのだが、つまり、こういう言い方はあまり好きではないのだが、あれです、つまり、異世界からやってきました☆という、ひと。自分の世界で何かあったのか、それはの知るところではないのだけれど、ある日が海軍本部の自室のクローゼットを開けたらいた。「よう」と軽く手を上げて目が合ったら言って来た、気安さ。もう見間違いだったら良かったのにと、それから彼女が普通にサカズキに「だろう」と認められ、あれよあれよという間に、いつのまにか海軍本部の海兵にまでなってしまって、そして気付けば中佐になった今日の日までなんと思ったことか。彼女のドSさと無茶ぶりは、昨今海兵たちのトラウマ化。クザンのところのSiiと良い勝負なんじゃないかとぼんやり思うが、いや、Siiは無自覚な鬼である。パン子さんは悪意のある鬼である。
彼女はもう一人のである。この世界とはまた違う、しかし酷似した場所から「ちょっと遊びに」来たらしい。そんなあっさりと気軽に言ってくれたが、しかし、容易いことではない。はそういうことが出来る方法がある、とは知っていたが、しかし、できるか、といわれたら首を横に振る。しない、のでもない。できない。この女性、海兵としての名は「トカゲ」と言う。と名乗ればどうかとが提案したら笑われた。どういう意味なのかもうわからない。パン子は以上に、本当のことを言わない。
「どうして、だなんて寂しいことを言うんじゃあないよ。ふ、ふふふ、廊下でばったりドフラミンゴと遭遇してな、とりあえず蹴り飛ばしたが、ふふふ、ふふ、あのどうしようもない外道にも人の心はあるのか」
の不思議そうな顔を愉快そうに眺めるパン子、悠々と口元を引きながらぼんやりとした眼で思い出すようにし、告げる。その内容、別にドフラミンゴに頼まれたわけでもあるまい。彼女、以上に人の思いなどお構いなしだ。しかもこの世界の住人ではないという意識がしっかりあるのか、遣りたい放題である。因果律とか魔術師なら承知しているだろう道理もさっぱり、無視してくれる。自分のやりたいようにやり、しかもたちの悪いことに、このひとに出来ぬこと、笑えるくらいに、ない。地平線超えで右目と魔力の全てを失ったくせに、このひとは完璧だった。いや、最強、ではない。剣の腕はあるがミホークにはとうてい及ばぬし、射撃もこなすが外さぬだけ。に薔薇の刻印がなければ容易く殺せるだろう、人間である。だが彼女は完璧なのだ。
「ドフラミンゴ、泣いてた?」
「泣かせてやってもいいがな。おれが甚振るのは赤旗だけだ。あぁ、そうだ。インペルダウンに、赤旗はいないのか?」
「残念なことにね。いたらキミが面白いことしてくれたのにねぇ」
海兵に貰ったリストがどこまで信じられるのか知れないが、しかし、もうこの時点ではそれに重要を置いていない。いないだろう、という妙な、確信があった。ドレークもホーキンスもサリューも、きっと無事だ。いや、多少死に掛けてるかもしれないが、少なくともインペルダウンにはおるまい、そう、なんとなく、わかった。あっさり言えばパン子は心底残念そうに溜息を吐く。履歴書に趣味:赤旗いぢめ、と堂々と書いた人である。丁度その書類を処理したのがかつてのドレーク少将の関係者だったため、担当者の顔を引きつらせ、ひと騒動生んだがそれは今関係ない。
「おい、」
それは己の名でもあるはずなのに、パン子はあっさりこの世界でそれを捨てた。そしてもうという名は最初から己のものでなかったように振る舞い、を呼ぶ。
「実際インペルダウンに行って、それでどうするつもりだ」
「意地悪だね。きみは、そんな直接的なこと聞かれても、答えなんて持っていないのに」
「ふ、ふふふ、だろうと思うがまぁ、許せ。どうしようもないことをどうにかしようとしている卿は健気だがな、ふふ、ふ、それでも、浅ましさがある」
「……」
目を細められ見詰められ、は黙った。パン子はもう一人の己である。サカズキ以上に己の心を暴きたて、承知できる生き物だ。だから彼女に会いたくはなかったのだと溜息を吐き、すぅっと、目を細める。
「悪いの?」
「あぁ、悪い子だ。迷っている、悲しんでいるふりをして卿の企みのなんと、悪意に満ちたこと。ふ、ふふふ、ふふ」
愉快そうな声。己の所業を悪意とそう謗られる覚えはあるけれど、しかし、彼女の存在そのものと比べればちっとも、まともだと思う。はぎゅっと掌を握り締めた。井戸はまだ落ち続けている。長い、それも当然だ。本来なら何百キロと離れている場所にそれより近い距離の移動で行こうとしている。
「サカズキが死んでしまうのはいやなの。このままじゃ、戦争が起きる。酷いことが、ある。夜が来る前に――ぼくが、消えてしまうまえに」
ギギッ、と、金属の擦れる音がした。パン子が器用に落下した態勢のまま、にきりつけてきた。本気のもの、ではないのだろう。出なければに受け止められるわけがない。ミホークに渡されたヒンジャルを引き抜き、パン子の一撃を受けた。再び愉快そうに、彼女が笑う。
「なんだ、やればできる子じゃあないか」
「なぁ、それ」
自分を堂々と子ども扱いするなど、彼女くらいである。が不機嫌そうにパン子を睨むと、彼女、急に改まって、に微笑んだ。
「おれは卿の夢だ。卿の剣、卿の殺意だ。卿の前に立ちはだかる全てをなぎ払い、卿の脳を煩わす一切を滅ぼそう」
ひょいっと、飛び出した井戸の外。苔の臭いだけでは飽き足らぬ、いやなにおい。何度訪れてもここの気配は慣れないとが顔を歪ませていると、パン子がを抱き上げた。
「ちょ、な、何するの」
「この周辺はまともだがな、一応ここは脱出不可能の牢獄だぞ?そこら中にトラップの類が仕掛けられているんだ」
は無駄に長く生きているが、そういうものを察知できたりはしない。寧ろ魔力がなければ本当ただの子供である。役立たずというかなんと言うか。その点で言えばパン子は軍人としての訓練もこちらの世界でしっかり受けている。そして何だか妙に老練な気配、インペルダウンをこっそり移動して誰にも見付からない☆なんてことも彼女であれば容易く出来そうである。
長身のパン子の背に負ぶわれては何だか気に入らない。誰の手も借りずに自分だけで、とそう決めていたのに、なぜ今、パン子と一緒にいるのだろう。そしてなぜ、パン子に頼ってしまっているのだろう。
「それで、ここはどの辺りなんだ?」
「知らないの?」
「おれは海底の牢獄になんぞ興味はない。おれの世界でも行った覚えはない」
胸を張って言うことでもない。しかし井戸の存在などは知っていたし、インペルダウンにある罠にも検討が付くのだから、彼女の能力が知れる。はパン子の肩に手を置いて、くるくると指を動かす。動かしたとおりに水の軌跡、インペルダウンは海底にある。の水の悪意への干渉力も些か戻ってきているようだ。
一通り動かして現したのはこの周辺の地図である。
「今はここ。すぐ外に出られるよ。海軍の船が着く港の近くだね。今頃ガープくんあたりが火拳のところにいるかも」
「ふぅん、それが別にどうでもいいんだが、それで、卿はどこへ向かうんだ?」
それを問われると困る。、ここで何か起きるとそういう予感があって、その時にここにいて、何か、なんとかしようとは思うのだ。だがそれが何なのかなど預言者でもないのだからわかるはずが無い。
「とりあえず、ぼくがここにいるってバレるとまずいと思う」
「まぁ、そうだろうな。海の魔女が、よりにもよってインペルダウンに現れました、などと、おれがセンゴクなら笑う」
「センゴクくんは笑わないと思うけど」
「あぁそうだな。つまらん男だ。なら、まぁ、連れ戻すだろうよ」
それが妥当なところである。別に海軍の邪魔をしにきたわけではないのだが、海軍の味方などになった覚えもない、疑われてもしようがない。この非常時にお遊び気分でほほーんと厄介なところに飛び込んだ、とそう思われるのが普段であるが、さすがに先日センゴクに「裏切るな」と念を押されたばかりである。そのうえでインペルダウンに出没しましたなど、どう考えても喧嘩を売っているようにしかとられまい。
「隠れ鬼か……それもまぁ楽しそうだがな、、どうせ見付かるぞ」
「最初からそんな夢も希望もないようなこと言わないでくれる?」
「ふ、ふふふ、性分だ。しかし、まぁ、だから、自首しとくのはどうだ?と」
は?とが眉を顰めていると、パン子さんがそれはもう、楽しそうにニヤニヤと笑った。
モモンガ中将はもの凄く異が痛かった。
この数日(いや、もっと前から胃痛は持病になっているのだが)キリキリと痛んで正直どうしようもなくなっていたほどの過度のストレスゆえの胃炎が、追い討ちをかけられたようだ。
この非常事態。四皇・白髭の2番隊隊長ポートガス・D・エースの後悔処刑を引き金に起こるだろう戦争への、準備のための命を受けたときは緊張と使命感。だが今は、いや、今もそれらは捨てていない、だがそれに、どうしようもない、心労が加わった。
けちのつけ始めは女帝ボア・ハンコックのわがままぶりである。仮にも七武海の称号を頂く生き物がそんなわがままを言うなどと、まず疲れた。そして兵を全員石にされ、一人で待つ数日(あ、いや、今思えばそのひと時が一番平和だった)やっと承諾してくれたと思ったら火拳への謁見を求められた。この、この事態の渦の中心人物への接触を、よりにもよて海賊が求めるなどと、と、ずいぶん胃もやられた。それで、しかしなんとかせねばならぬと上官へ連絡を取ったのだが、中々許可が下りなかった。あのドSな上司……いや、徹底した大将殿は「有無を言わせず海楼石を仕込ませた鎖で首を縛って引き摺って来い。海賊風情に人権など考えるな」などと無茶なことを言って来た。正直、その時吐血しなかったのは奇跡である。
そしてなんとか許可も下り、ハンコックも船に乗った。平和な渡航のはずだった。阿呆な部下たちが、また阿呆なことをして(本当、阿呆というより愚か者の極である)石にされ、それを解くために慣れぬチェスの勝負、なんか勝ちそうだったのにハンコックに盤をひっくり返され、いまだに彼らは石のままである。いや、もういっそ貴様らは石でいろとさえ思う。だが部下の命を預かる上官としてそんなことは口に出せない。実行できない。それでキリキリ胃が痛んだ。
やっと辿り着いたインペルダウン、あとは火拳のエースとハンコックを対面させ、そのままマリージョアへ連れて行けば今回は一度終了である。その後ついに公開処刑、戦争が始まるのだろうが、ひとまずはこの胃の痛む日々から開放される。最後まで油断するつもりはないのだけれど、それでもあとは容易いと、そう、胃が落ち着いた矢先だったのに。
「ふ、ふふふ、そんな嫌そうな顔をするんじゃあないよ。蹴り飛ばしたくなるじゃないか。ふ、ふ、ふふふふ」
目の前にずーんと、仁王立ちした、長身の女性。ボア・ハンコックとはまた違う類の絶世の美女には違いないが、モモンガ、ハンコックの美しさには惑わされそうになっても、間違ってもこの女性を「美しい」と思う心など芽生えない。というか、無理です。
「な……なぜお前がここにいる」
ハンコックを伴って船を下りたその瞬間、向かいから堂々と歩いてやってきた、海軍本部のトカゲ中佐。いくら多少のアレンジは許されるとはいえ、それはアレンジではなく作り直しただろう、と突っ込みたくなるスーツを着用した、海兵。
そして見間違いであってくれればいいと心底思った。
「おれがいたらまずいのか?一応これでも海兵だぞ?重要人物のポートガス・D・エースに七武海が接触しようとしているこの事態、応援だ、応援。よし、がんばれー」
貴様は本当に言葉通りお応援だけのつもりだろうと突っ込みたかった。だが怒鳴った瞬間ピンヒールで蹴り飛ばされる。モモンガ、彼女が海軍本部に配属された時はトカゲの上官だったのだが、その時からもう、トカゲはトカゲであった。階級とかそういうのは彼女の中ではただの呼び名らしいと、ぼやいていたのはあのドS上司だ。あの方に溜息すら吐かせたトカゲをその時は僅かに尊敬したが、海兵としてそれはいいのかと怒鳴りたい。いや、昔は実際怒鳴って、そして、もう二度とするものかと誓った。
「邪魔をしに来たのではあるまいな……貴様のことだ、面白そうだから、という理由で囚人を適当に脱獄させかねん」
「信頼しろ、なんて冗談は言わないがなぁ、モモンガ中将殿、考えても見ろ?ここでもし女帝殿が何かしたら、どうこうできる人間は多いに越したことはないだろう」
「……貴様の、強さだけは、理解できる」
「他の行動も多少は理解してくれ」
「死んでもごめんだ」
おや、と、トカゲは肩を竦めて見せて、それからボア・ハンコックに笑いかける。
「と、いうことだ。少し一緒にいるぞ?女帝殿」
「なんじゃそなた」
「おれはトカゲ。まぁ、の知り合いだ。ふ、ふふふ」
、という名にハンコックの眉が動く。七武海としてボア・ハンコックもパンドラに謁見をしているはずだ。その時に彼女がパンドラをどう感じたのかはモモンガの知るところではないが、遠目で見、聞き及ぶとハンコック二人の関係はきわめて良好らしい。今回もモモンガにを同行させる、という意見も出ていたくらいだ。もしがいればもっとスムーズにことは運んだかもしれないが、しかし恐らく、いや、確実に、モモンガは胃をやられて白髭戦の前に役立たずになっただろう。
「……好きにせい」
「そうさせてもらうよ、ふふふ。なんだ、良い子じゃあないか」
「っ、無礼者めが。わらわを誰と思うておる」
「え、ボア様?」
「蛇姫様じゃ!そう呼べ、愚か者!」
何だかドSな女性二人がドS決定戦のようなものを繰り広げ始めた。あ、また胃痛。きりっとモモンガは胃を抑えて、一言。
「とりあえず、お前ら行くぞ」
いろんなツッコミを我慢してなんとかそれだけ言ったのに、振り返った女性二人、それはもう綺麗にはもって仰った。
「「煩い!黙れ」」
海軍本部中将モモンガ……もう本当、白髭戦の前に倒れそうである。
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