白髭やロジャーに勝てなかったくらいで海賊王になれなかった連中、わんさか犇くインペルダウン、下層部。かつては海賊の高みにまで上り詰めたものどもが深い海底のこの牢獄に現在ある、というのは相当の皮肉でもあるのだろう。

火拳のエースの投獄、戦争の引き金、牢の中が随分と騒々しくなった。白髭の首をよこせ、と喚く連中。それは普段聞く悲鳴などよりよほど良い。拷問などどうということもない傲慢さ、クロコダイルがにやにやと笑っていると、そこへ一つ、コツン、と、足音。

「少し、黙りなよ」

小さな声。低い、声。ぴたり、と、囚人たちの声が止まった。存在に気付いての、ではない。完全なる沈黙。時が、止まったのだとクロコダイルは承知していた。些細な手品程度の力ならまだ残っていると嘯いていた様子を思い出す。それで、己と、そして火拳、ジンベエの呼吸のみが残った。




















メフィスト


















こつん、と小さな音がしてエースがぼんやりと顔を上げればそこに、いつのまに居たのか小さな子供。しゃがみ込んでこちらを見上げてくるのならどこぞの童女の幼さ愛らしさがあったもの、しかしその子供、いや、少女、エースにも覚えがある。暖色の髪、太陽の下にきらきら輝いていた真っ赤な髪の、嘆きの魔女、そのひとだ。

「何の用だ」

この生き物、その名前はいろいろあるが、エースは名を呼ばなかった。アラバスタで弟ルフィと再会したときに、ひっそりその傍らにいたのを確かに見ていたが、驚くこともない。そういう生き物なのだと、オヤジから聞いていた。どこにでもいて、しかしどこにもいない。

「……」

その子供、ルフィはとそう呼んでいた子供。ぼんやりエースを見下ろしている。真っ赤な眼は暗闇でもぼんやり光る。近くにいる、七武海の男が狼狽したのが気配で分かった。

「ノアさん……なんでここに」

ジンベイの声、先ほどまでの悔しさで滲みきったものに、さらに添えられる、絶望のにおい。この七武海はいつものことを「ノア」とそう呼ぶ。多くの名を冠する生き物だ。いろんな呼び名があるのだろうとは思われるが、しかし、エースは、その、名が妙に引っかかった。ノア、と、そう己の口から漏らそうとすればそのたびに言いようのない、深い、苦しみのようなものが湧き上がる。何のことかは分からぬのだけれど、しかし、エース、だから、その名を使ったことはない。

見上げるその赤い目、信じられぬほどに幼く、赤い。泣きはらしたかのような、赤眼。クリスマスにサンタは来るのかと純粋に問う幼い子供。あどけなくジンベイを見上げて、縋る。

「ねぇ、魚人のジンベエくん、きみをここから出したら、この戦争を止められる?」

小さな呟き。それに、ジンベエがはっと息を飲んだのがエースにはわかった。止めたいと、どうしようもないことを、どうにかしたいとこの魚人が奮闘したのは、すべてせんなきこととなった。しかし、それでもまだ、どうにかしたいと思っている。何度も何度も、エースに「どうにかしたい」とそれを告げていた。だが、もうどうにもならないのだ。あのジジイ、ガープもそう言っていた。だがジンベエはまだ諦めていなかった。まだ、まだどうにかしたいのだと、そうあがいていた。

しかし今、この少女、小さな小さな、少女の問いを受けて、ジンベエの中に僅かにあった、小さな小さな、希望が消えてしまった。いや、自覚させられたのだ。

この少女、この、生き物は何でもできる。ここでジンベエを檻から出す事も、エースをここから逃がすことも、恐らくできるだろう。だが、それで「戦争が止められる」わけではない、そう、突きつけられた。

現実的に可能なことを提示されれば、不可能も知れる。それで、ジンベエの瞳が翳った。それを見過ごす少女ではない。ぼんやりと、つまらなさそうに、目を細めた。

そして、ぐるり、とそのままあたりを見渡して、その中のひとつに視線を止める。眼を細めて、ぎゅっと、唇を噛んだ。

「良い様だね、クロコダイルくん」

声はどこまでも底を這うように低く、重いもの。憎悪さえあるのではないかと、そう感じさせるものだが、実際のところどうなのかなど、思案するまでもなくクロコダイルは知っている。

来るか、とすらクロコダイルは思っていた。己がインペルダウンへ送られた、からではない。慢心はしていない。が来た。その理由、きちんと、はっきり、わかっているのだ。だからこそ、クロコダイルの告げるべき言葉など、知れている。

「大将のところへ戻れ、悪意の魔女」

ゆっくりと体を前に起こして、じゃらじゃら鎖が鳴る。暗闇の中、こちらの顔など見えぬだろうに、じっと、その赤い目がこちらを凝視してきていた。クロコダイルは嘲笑も憐憫もわかない。反応はなかったが、言葉は続けた。

「俺は言ったな?何もかもを止めたいのなら、どうしようもないことが、どうしようもなくなる前に、この俺の手を取れば、お前の望みの全てをかなえてやると」

アラバスタでことを起こした己の前に、はやってきた。例の王女さまから騒動を聞きつけたらしいが、そのときに敵対はしていなかった。あの時、まだはクロコダイルを「気に入って」いたままだった。鷹の目よりも、ドフラミンゴよりも、クロコダイルはの意識の上位にいた。その自負が、クロコダイルにはあった。自分が何かしたわけではない。ただ在るがままでいたクロコダイルにはひょこひょこ着いてきたのだ。だからこそ、手を差し伸べた。

海の魔女、悪意の魔女、嘆きの魔女、クロコダイルの求めた全ての古代兵器の詳細を、知っているだろうただ一人の生き物。

今の状況がクロコダイルに見通せていたわけではない。まさか白髭が政府とことを構えるような展開になるとは思ってもみなかったが、だが、時代のうねりは予期していた。何かあるだろうと、そういう、においは感じ取っていた。だからこその、その流れの道理となればアラバスタを掌握することも出来るだろうと、企んだのだ。

その時に、自分はに手を伸ばした。これから起きる「何か」に、が泣くことのないようにしてやると、そう、手を差し伸べてやった。

「そうだね、言った。君は言ってくれた。そう、言ってくれたね。好意でも善意でもなく、その対価に、ぼくの全てを引き継ぐと、この魔女の悪意、この罪人の真実の全てを受け入れ、そして世界を手に入れると、そう言ったね」

格子の向こう、が小さく呟いた。相変わらず、幼い目をして、しかし賢しい女。

ニコ・ロビンを思い出した。あの女とは、あぁ、そういえば少しだけ似ていた。今頃はどうしているのだろうかと浮かんでこないわけでもない。己にしては長い間傍に置いていた女だ。女、としてみた事はないが、人としては、見ていた。あの宮殿が崩れて死んだのか、いや、そんなタマではない。どうにか、しただろう。生きようとは思っていなかっただろうが、まだ世界が、あの女を殺しはしない。あそこで死ねるような、並みの女ではないのだ、ニコ・ロビン。が世に生き残ってしまったように、あの女も、世界が生かす。

不意に思い出した。あの女、あの、黒髪の女を、自分はあいしていたのかもしれない。

そこまで考えて、しかし今となってはどうでもいいことでもあった。それで、今の問題、目の前の、小さな生き物を見詰める。、じぃっと赤い目を向けてきて、クロコダイルの言葉を待っているようでもある。

「あぁそうだ。俺はそう言った。その時に手を取っていりゃあ、今こんなことになんぞならなかっただろう」
「その代わりに、ヘルセポネが嘆いたよ。そんなことはあってはならない。ぼくなどの欲が、世を揺り動かしてはならないんだ」

頑なな意思、に聞こえなくも無い。だが、妙におかしい。クロコダイル、喉の奥で引っかいたような、笑い声を立てた。

「じゃあなんで、今お前はここにいる?」

ひゅうっと、喉から酸素が急に移動する音。じゃらりと鎖を鳴らして、クロコダイルは深い溜息を吐いた。立派な女。賢しい女。しかしは、どこまでも「幼い」のだ。ニコ・ロビンを思い出す。あの女も、自身の為に全てを貫くことが出来なかった。だからクロコダイルを裏切った。女というものは、どうしても一つのことを貫けない。途中で様々な道に分かれてしまう。魂が複数あるからだと、まだ鼻を垂らした新米だったころ、流れの占い師が言っていた。そんなことは、どうでもいいが。

疲れたように息を吐き、クロコダイルは壁に寄りかかる。何も言わぬ、。言葉も、声も失ったか。

「なぁ、お嬢さん。なぁ、。最後の魔女。お前はよくやったさ。そんな小さな形で、頭でよくやっただろうよ。だがよく考えろ。結果、お前に何が出来た?」

容赦なく、突きつけてくる。もうどうしようもないことになっているのだ。世が、世が動き出す。世、夜、は似ている。これからどうなるのか、それは自分には良い見物ではあるが、には違うだろう。それはわかってる。だからこそ、クロコダイル、言うべき言葉など、わかっていたのだ。

「どれほど声を枯らしたところで、お前が望んだ結末になることはない。分かっているだろう、知って、いるだろう。なぁ、もう帰れ、お嬢さん」

言い放てば、ふるふる、と格子の向こうで小さくが震えた。泣き出しそうな様子、に見えなくも無い。このままなけば、無理矢理停止させた時間はどうなるのだろうかと、そんなことを思う。海楼石に縛られているおかげで、魔女が嘆こうが何だろうが、今は影響も受けないだろうが、しかし、苦しい思いが完全にないわけでもないだろう。だが些細な事である。早くが立ち上がって、さっさとマリージョアに帰ればいいとクロコダイルが待っていると、俯いたの頭が動いた。

「……か…」
「?なんだ、、」

小さな小さな声。顔は見えぬが、何か呟かれたのはわかった。聞き取れなかったので聞き返すと、キッ、とが顔を上げた。

「ばかばかばかばかばかァ!!!!」
「いっ、いでっ、痛っ、お、おい!!?、や、止めねぇか……!!!」

勢いよく顔を上げた、その手、というか、軽く広げたスカートの上には、いつのまにか小石が溜まっている。それをが「バカ」と連呼しながらこちらにぶつけてきている。

どうというわけもない、拉致も無い攻撃とも呼べぬものなのだが、妙に、痛い。らしくもなくクロコダイルが狼狽しても、は容赦なく小石を投げ付けてくる。その石、妙に角が尖っている。まさかこうして投げるために石をカットして持ってきたのではないかとそんな疑問も浮かぶほど、妙に痛い。

「大変だなァ、クロコダイル」

へぇーっと、別の格子からのん気な声が聞こえる。そちらの気配を見ればエースとジンベエ、鎖に繋がれていなければ茶でも啜って傍観といった、完全観戦態勢でこちらを眺めているようだった。

「てめぇ火拳!のん気に見てんじゃねぇ!!!」

言う最中にもの「ばかぁああ!!はげぇええ!鞄!!!」と妙な攻撃は続いている。というかその石いくつあるんですか、とそういうものはパンドラマジック☆の一言で片付けられることである。クロコダイルの妙な叫びに、エースはジンベエと顔を見合わせた。

「でもなぁ、どうしようもねぇだろ」
「所詮わしらにできることなどないんでな」

エース、先ほど白髭の首うんぬん言ったのを根に持っているらしい。それもあるのだが、というか、下手にちょっかいかけてこちらに飛び火したら嫌じゃないか、とそういう態度がありありと出ている。ぴきっと、クロコダイルは軽くこめかみを引きつらせたが、しかし、どうしようもない。

「わかってるのにそういうこと言わないでよね!クロコダイルくんのいぢめっこ!!!ばかぁああ!!!」
「ちょ、ちょっと待て!!なんだその手に持ったやけにでかい石は!!!?」
「え、トドメ用?」
「ま、待て!冷静になれ!俺をここで殺してどうする!?」

トドメってなんですか。どう見ても海の成分しっかり入った蒼く光る石、これで心臓とか抉られたら、悪魔の身はひとたまりもないと、そういうシロモノ。重いのか持つ指がふるふると震えている、きょとん、とした顔。幼い、幼いのだが、やっていることは、容赦ない。

このまま殴り殺されるのか、さすがにそれは、不名誉に過ぎる。いや、名誉など拘るわけではないが、気持ちとしてその死因は回避したいもの。クロコダイル、脳内のあれこれと引き出しを急いで探し回り、この状況を脱出できる情報がないかを思い出す。だがそんなものの心当たりはなかった。




Fin