仄暗い場所でぴちゃりと水の音。湿った土のにおいに乾いた血の感触を覚えてはゆっくりと眼を開いた。透明な水の中に半身を沈める己、そのままでぼんやり眼を開く。さらりと耳から流れる己の長い髪は濡れておらず、開いた眼は暗闇でもよく見えた。

(ここは……)

意識がゆっくりと戻ってくる。地下、のような、深い夜の中のような、奇妙な場所に己がいるらしいことはすぐにわかったのだけれどしかし、なぜここにいるのかが思い出せない。この目の前の光景に来る前の記憶がすぐには呼び起こせない。いったい今はどういう時代で、自分がどういう時分で、そして、何がいまどうおきている時なのか、よくよく考えても思い起こせない。常であればそれは別に、どうでもよいことではあった。そうではないかと己が気づき、あぁそうだと肯定して頷く。別に今がどんな時代であろうとどんな時であろうと、己がどう動いている時であったとしても、別に何の問題もない。己はそういう生き物だと、そればかりが思い出される。

(そうだ、ぼくはそういう生き物。長い時間をひっそりと生きて、たゆたう時間の流れ。今が世界の終りの日でも、それはぼくの知ったところではなかった)

だから今なぜここにいるのかを思い出す必要などはない。はずだ。しかし今己は何か「思い出していかなければならない。そうしなければ」とどこか、あせっている心があるのだ。自分が何者であるのか、自分が、どうしてここにいるのか、そして、自分が何をしなければならないのかを、しっかり一切合財を把握しなければならない。そういう使命感、いや、それが道理でなければならないという、妙な、焦りがあった。

(なんで、だろ)

「まるで人間のようじゃあないか」

ぼんやりぐるぐると思考ばかりがめぐる中、己に沸いたふつりと小さな疑問、それに応対したのは己の声ではない。

「誰?」

は声の存在に、わずかに体を動かして、首を向けた。生き物の気配のしなかったこの暗い場所。明かりの一切もないのに、しかし、いや、明かりはあった。水がほんの少しだけ光を発しているらしい。だからここは仄暗い場所だった。水の揺らぎ、が顔を向けた先には、誰かがいた。ゆっくりと、ゆっくり、は目で見つめる。顔は見えない。体も見えない。しかしそこには誰かがいる、ということだけははっきりとわかる。

「自分が何者であるのか、そして自分が何をしなければならないのか、何のために存在しているのか、それを知りたいなど、ふ、ふふふ、ふ、まるで人間のようなことを願っているのだね」

卿、とそう呼ばれた。その口調、声には覚えがあった。誰、と問うたはずなのにその回答はせぬのか、いや、そういう必要などはないという暗黙のことだろうとすぐに思いついた。己は彼女を知っている。

「あぁ、そうだね。卿はこの私を知っている。承知している事実をわざわざ他人に問うのは確信したいときか、あるいは否定したいときだけだ。卿はどちらか」

人が立ちあがる音がした。けれど何のにおいもしない。もたちあがった。己が動くと常は薔薇の香りがしたものだけれど、今はなんの気配もしない。

「ぼくは死んでしまったの?」
「そういうオプションが付いているのか」
「オプションってなぁに。人は須く死んでしまうものでしょう。このぼくだって例外には、」
「卿はもう随分と昔に死んだだろう」
「ノアのこと?」
「いや、卿自身のことだ」

ぴたりとは歩き出した足を止めた。己、は死んだことなどあっただろうか。そして急激に記憶が呼び返される。思いだされる、あぁ、そうだ。そう、だ。自分は、自分、は。唐突にありとあらゆることが思い出される。しかし全て、ではない。思いだされたこと、自分はサカズキのところにいて、今は、エースが捕らえられて、世界が揺り動く時で、自分は、その、変動はどうでもよかった。けれどその変動に置いて、サカズキが死んでしまう恐れがあることが恐ろしかった。

「どうして?」
「え?」
「どうして、サカズキが死ぬことが恐ろしいのだね」
「どうしてって」

思い出される、さまざまなこと。そして自分は、その騒動を「なんとか」したかった。けれどどうにもできないとも分かっていた。長い歴史の中で何かを成せるのは必ずそれが道理とされる生き物だけだった。言い換えれば歴史の中に名を残せる生き物だけ。それは己ではなかった。自分は、そういう生き物の枠から外れてしまっていた。

でも、それはなぜだ?

「おかしな話ではないか。卿は世界の敵と知れるほどの、重要人。それでも世界を脅かせないのか?巨大な力、巨大な存在、巨大な道理を持っているのではないかね。それでも、卿は世界にかかわれないと?」

なぜだね?と、声が問う。先ほどから問われてばかりだった。はぐるぐると、頭の中が回る、気持ちの悪い思いをした。シャボンディのジェッドコースターに何度も乗ったようだ。そういえば昔、Siiとクザンとサカズキの四人で遊園地に行った。あの時は何度ジェットコースターに乗っても大丈夫だった。

懐かしいと思いだして口元がほころぶと、ぐいっと、顎を掴まれた。乱暴なしぐさ、ぐっと息が詰まって、眉をしかめる。暗い中に、ぼんやり見えた、青い瞳。は目を細めた。

「今卿が回顧に浸っている場合なら手荒なマネはしたくはないのだがね、そんなバカなことに現をぬかしていると千年経つぞ」
「君に問われたことをただ考えて答えを出せば、ここから出られるの?」
「そんなオプションはない」

オプションってなんだ、オプションって。は些かあきれて、息を吐く。するとスッと手が離れた。けほりと小さく咳をすると思ったが、息はすぐに整った。

「サカズキが死ぬのが恐ろしい卿の心は、なぜだね」
「それは、サカズキが、」
「サカズキが?」
「サカズキが、」
「サカズキが?」
「サカズキが………約束、してくれたから」

約束、して、くれたから、だ。答えては自分に言い聞かせるように、頷いた。そうだ。サカズキは、約束してくれた。ずいぶんと長い時間を生きる自分、何もかもに置いていかれてしまう。みんな、みんな、がすきになった人たちは、自分を置いて老いて逝く。それがとても悲しかった。苦しかった。トムが死んでしまって。それが顕著になった。解り切っていたことだけれど、そうと400年間歯をくいしばってきたことだけれど。なんでもないと、思いこもうとしたけれど、だんだん、だんだんと、耐えきれるものではなくなってきてしまっていた。あのころ、8年前にトムが死ぬ前に、己は多くのひとを亡くしたから、そしてトムの死の少し前に、フラムが死んでしまったと思っていたから。だから、悲しくて、苦しくて、どうしようもなくなっていて。

「一緒に死んでくれるって。サカズキが死ぬ時は、一緒にぼくも殺してくれるって、約束してくれた、から」
「なのに、恐ろしいのかね」
「……それは」
「おかしいではないか。サカズキが死ぬ。この世界の騒動で命の危険があるということは、それは、卿とサカズキの約が果たされる可能性があるというだけ。よかったではないか、初めて己と添うてくれる眠りだろう?恐ろしいなど、今更命でも惜しくなったか?」
「違う!!!」

びりっ、と空気が震えた。ぴしりと亀裂。何が軋んだのかにはわからない。しかし己の怒声に、血のにおいが増した。

「違う、違う、違う!!!ぼくは、ぼくは!」
「違うのかね?サカズキが死ぬ時は己も死ぬのだろう。では、何を恐れている。悲願の達成だろう。一緒に終われるのだ。卿はまた目覚めるだろうが、あの男の魂もまためぐるだろう。×××のように」

囁かれたその名前は聞き取れなかった。誰のこと、とが問うより先に、ゆっくり、手が伸びての首を掴んだ。はっとしても己の首に触れる。真赤なバラが刻まれていたはずの己の首に、今はなんの刻みもないことに気づく。しかしそれがどういう意味なのかをはっきりわかる前に、ぐっと、首に伸びた手がを引きよせ、吐息が触れ合うほど近く、耳にささやく声。

「気づいたのだろう?サカズキは本当は、己とともに死んでなどはくれないと」
「……れ……」
「あの男はうそつきだ。卿を殺す気などないくせに、約束で卿を縛った。己は一人きりで死ぬ気なのに、卿にはそう囁いて、平気で、」
「黙れ!!!!」

腕を振り払って、は後ろに大きく下がった。息が上がる。心臓が、痛い。胸を押えて、ぎゅっと、唇を噛む。

「黙れ、黙れ、黙れ!!!!」
「卿は知っていたんだ。そう、気づいていた。だから恐ろしかったのだろう?サカズキが死んで、卿は取り残される。その現実を突き付けられた時に、卿はこれまでサカズキとの約束だけを心の支えにしていたのに、それが、なくなる。卿は、サカズキを憎むのだね。それが恐ろしいのだね」
「黙れ!!!!そうじゃない……!!そうじゃ、ない!!!!」

頭を振って、ついには膝をつく。己の悲痛な声が耳にこだました。ぴしゃりと水の中に手をついて、は弱々しく、頭を振り続ける。

「違う……違う、違う……!!!そうじゃない、そうじゃ……ないんだ……」
「卿は知っていた。気づいていたから、その絶望を確かなものにしないためだけに、己はただ漠然と「サカズキが死んでしまうのは嫌だ」という顔をして、本当は、ひとりぼっちになる現実を突き付けられる己を守りたかっただけだろう」
「違う……違う……ぼくは……」

ふわり、と、木漏れ日のにおいがした。どこかで聞こえる、オルゴールの音色。穏やかな春の日差し、午後のお茶会。いやそうな顔をしながらも白い椅子に座ってくれた、ひと。香りのよいお茶、焼いてくれたクッキーのにおい、摘んできた花のかおり。

「ぼくは……知ってたんだ……サカズキが、サカズキが、ぼくのこと……すき、だって、ほんとうは、知ってたんだ……」

本当は、何もかも知っていた。サカズキがどうして自分を殴るのか、どうして、ひどい言葉ばかり吐くのか。どうして、それなのに、そばに置いているのか、知っていたのだ。険しいだけの口元が、厳しいだけの瞳が、本当は、本当はどんな感情を秘めていたのか、知っていたのだ。

「知ってて、ぼくは、サカズキの苦しみも、全部、知らないふり、してたんだ……」

あの日、モリアーに自分がパンドラではないのかと疑いをかけられるより前に、本当は、気づいていた。そういう可能性、いや、違う。本当は、どうなのか、知っていたのだ。けれど何も知らないふりをしていた。そうすれば守ってくれたから。自分が泣けば、守ってくれていたから。サカズキが、大事にしてくれたから。何も知らないふりをしていただけだ。

「サカズキはただ……巻き込まれただけなのに…ぼくは、それを知ってたのに……」

薔薇の継承者は、サカズキではない。本当は、別のひとだ。ベガパンクの実験の産物、たまたま、サカズキがその能力を手に入れてしまっただけ。その力がどんな意味を持つのかも、昔は知らなかったはずなのに、手にれてしまったばかりに、彼は、やパンドラ、それに×××の業に巻き込まれてしまった。

本当は何もかも、知っていたのだ。サカズキが自分をどれほど想ってくれていたのか。そのために、どれだけ苦しんでいたのか。知っていたのに、その、優しさが心地よかった。ただ頭から甘やかすだけではなくて、本当に、必死に自分のために何かをしてくれていることが、心地よかった。

「それなのにぼくは……ただ守られるだけの御姫様でいたんだ……サカズキが、どれだけ傷ついているのか、知ってたのに……!!!」

卑怯者だった。あさましい生き物だったんだ。だから、だから、ぼくは。

「それは、悪いことなのか?」

悔いるの言葉を遮って、呟く言葉。唖然としてが顔を上げると、そこには右目のない、背の高い女性。どこまでもどこまでも透通るような声で囁き、どこまでも深い海の瞳で見つめる。何もかも、そのまた先の遠くまでも委細承知であるという眼。を見下ろす瞳は、いささかの侮蔑も慈悲も含まれていない。

「卿は女の子だろう?すべての子女はお姫さまだ。お姫さまは王子さまが守ってくれる。お姫さまがどんないきものだろうとそれは関係ない。お姫さまは王子さまが守るものだ」
「そんなこと、守られて当然なんてこと、あるわけないだろ!」
「では卿は魔女になるのかね」

さらさらと、何かが流れる音がしてきた。は顔を上げたまま、目を見開く。何をいまさらなことを言っているのかとそういう、目。それにころころと、声をあげて笑われた。

「魔女がただの称号や名称、職業だとでも?ふ、ふふふ、そんなことも忘れてしまったのかね、×××」

先ほどと同じ名前が吐かれたのに、の耳には聞き取れない。

「ぼくは、だよ。×××じゃないよ」

それなのに言葉にはすぐに出せた。けれどやはり、己で己がなんと呟いているのかは聞こえない。目の前で笑われ、不快な思いをするのが常であるのに、今はそんな気分は湧いてこなかった。不思議に思いながら、はゆっくり立ち上がる。

「ぼくは魔女だよ」
「いいや、卿はお姫さまだよ。王子さまに守られている、お姫さまだよ」
「違う、ぼくは悪意の魔女、海の魔女、嘆きの魔女だ」
「それはただの名前だよ。あさましい人の世が呼ぶ、それはただの名前だ」

本当の魔女というのはね、と、ゆっくり、ゆっくり、塔の上で糸を紡ぐ老婆のような怠慢な、ゆらりとした動きで、言葉が囁かれる。

「お姫さまになれなかった女のことだ。ほら、彼女のように」

指差した先をつられて振り返り、は目を見開いた。








ここは冷たくて、気持ちが悪い場所だとは思った。けれど他の場所を己はたいして知らないのに、それが気持ちの悪いことだと判断のつく自分はなんなのだろうか。傍らでいつも泣いてばかりいる妹をぼんやり眺めながらただそう考える。段々と水も増えてきて、いよいよ己も、そしてこの妹も死んでしまえるのだということを先ほど目覚めた時に感じた。

自分たちがどうしてこの、深い場所に捨てられてしまったのかはわかっていた。暗く、さびしい場所。深い森の奥にある、井戸の中。高い高い、石の壁のずっと上には空が見えた。の小さな体で散歩ほど歩けばすぐに向かいについてしまう、狭い場所。己の手足では一生かかっても上がれぬ高さ。空は見えるが、それはの拳くらいの大きさで見えるだけだ。空と言っても、青くはない。ぼんやりとした光が見えるだけ。そしては、どうして空が青いのが道理であるのか、ここがどこぞの森の中であるのか、それを知っている己にさして疑問は覚えなかった。

「いつまでも泣いているのね。そんな大声を出したって、どうしようもないでしょうに」

水の中に浸って段々と体温のなくなってくる妹を見下ろした。言葉も話せる、耳も聞こえる、しっかりと己を自覚していると違い、妹はまだ赤ん坊だった。年の離れた妹というわけでもない。己はこの妹と双子として生まれてきたのだ。

それなのに今、は言葉を話せる程度の成長、妹はただ泣くだけの赤ん坊。どうしてそうなってしまったのか、ちゃんと判っていた。そしてどちらがおかしいのかも、はわかっていた。

(女の腹の中に宿ってひと月で私たちは生まれた。私は一日目で目を開き、歯をそろえ、三日目で歩き、十日後に言葉を話した)

だから恐れられて打ち捨てられた。ただ捨てただけでは誰かが拾い育てる恐れがあると念入りに、この、全てを消してくれるという井戸の中に捨てられた。捨てた女の顔にも、男の目にも、何の憐憫も悔いもなかった。そんなことよりも一刻も早く全てのことをなかったことにしなければという焦りの方が強く出ていて、ぼんやり、井戸に投げ込まれるその瞬間まではじっと、女の目を見つめていた。

そうして暫く、日に日に衰弱していく体に恐れはなかった。妹はどうだろう。何も、悪くはないのに、とは思う。この身とは違う、妹。ただ十日で生まれてきてしまったという奇異さはあったけれど、それ以外はただの赤ん坊だった。あの女も、この子供ばかりは安心して乳を与えていたと思う。それなのに己と双子というばかりに捨てられたのだろうか。そうだとしたら哀れなことだとそうは判じて、しかしどうしようという気も起きない。ここで己らは死んでいくのだろう。ただわめく、泣くばかりの赤ん坊、妹を眺めた。妹の目は青い、どこまでも青い。の目は赤かった。どこまでも赤い。あの女はこの赤さにもおびえていた。どうして赤が恐ろしいのかにはわからなかった。だが赤は悪いものなのだろうとは、なんとなくわかった。だからなるべく目を伏せていただのけれど、今思えば、だからなんだというのか。

妹が泣く。ぎゃあぎゃあ泣いて、かまびすしい。この井戸の中には妹の泣く声、だんだんとか細くなってくるのに、やまない。そんなに死にたくないのかとは思う。しゃがみ込んで、妹を頬を撫でた、やわらかい、しかし、やせ細っている。の体は変わらない。何も食べずとも、何も飲まずとも、何の異変もなかった。髪も伸び、今では水に浸かるほど。それでも赤ん坊はそうではないはずだ。そしては、この子には名前がないことに今初めて気づく。名前、そうだ。己には名前があった。あの女が、名前だけは与えてくれた。けれどこの子を、あの女は呼ばなかった。こちらの子供の方がまともな部分が多かったのに、名前はなかった。それは愛情ゆえではない。名もなけれれば己がますまず化け物になると承知していたからだ。あの女たちの暮らす場所にはそういう思想があったことを覚えている。恐ろしいものにはなおのこと名をつけて、そして名で縛る。というのは人の名前だ。だからそう呼べば人になるのだろうと、そう、思われたのだ。それだけのこと、そして結局、そんなことにもならなかったという、だけのこと。だから後に生まれた妹には名前などはなかった。己がこうであったばかりに、妹は名前がないのだ。

だが、今はそんなことはもうどうでもよかった。己も、そしてこの妹もまもなく死ぬ。死んだあとはどうなるのか、それも、どうでもよかった。






!!!」

は駈け出して、指差された先の壁に貼り付けられている女の名を呼んだ。バシャバシャと水の跳ねる音。足下までしかなかった水が、進むにつれて嵩を増していく。ついには腰元にくるまでに溢れてもは止まらず、駆け寄った。

茨に縛られている、青く長い髪のひと。エニエスで何度も見た、己の本体であるとされている、ひと。世界の敵、最後の魔術師、王国の生き残り、パンドラ・

「なんで、どうしてキミがここに……君は今、マリージョアにいるはずなのに……」
「なんだ卿、彼女と己が違うともう認めたのか?」
「君が彼女をここに連れてきたの?」
「そういうオプションはついていない」

ぱちん、と指が鳴らされる音。さぁっと水が引いた。は棘を手で引きちぎって、の体を引く。以外にも容易くその戒めは説かれて、簡単にの体がこちらに落ちてきた。

「う、わっ」
「以外に阿呆なのだね、卿。己よりも大きな体が降ってきて支えられるわけがないだろう」

素直にの体に押しつぶされて声を呻かせるを、おかしそうにコロコロ笑って、しかし起こしてはくれないらしい。うんうんと唸りながらを退かし、眉をしかめる。

「どういうこと?」
「答えが多すぎる。質問は的確に、×××」
「ぼくはだ。どうして、ここに彼女がいるの。彼女は、」
「彼女はずっとここにいるよ。ここがどこだか、卿は忘れてしまったようだけれど」

ここ、と改めては己の現在いる場所を考える。そうだ、自分はインペルダウンにいたのではないか。同じように薄暗い場所であるけれど、ここにはマゼランの気配も、ひしめき呻く悪魔たちの声もしない。ここには、何の気配もしなかった。今だって、自分たちの気配はない。ここは、どこなのだろうか。

忘れてしまった、と言われたことは、では己は本当はここを知っているということになる。しかし、にはすぐに思いつかない。

「忘れてしまったことは一つだけではないね。卿は、あまりに多くのことを忘れてしまっている」
「……ぼくは、」
「卿は自分が何者かのかを、何をしなければならないのかを、考えていたね。ここがどこなのか思い出せば、それがすべてわかるよ。さぁ、どうする、×××」

問われ、微笑まれる。決意を促されているわけではない。そう、ではないとにはわかった。どちらを選ぼうと、彼女にはどうだっていいことだろう。だが、がどちらかを選ばねばならぬということをわかっている目、だ。

「ぼくは、ぼく……は」

己が今知っていることを、考える。遥か昔に王国は滅んだ。それが自分の始まりだと思っていた。ずっと、そうであると思っていた。しかし違った。本当はそうではなくて、自分は、あの時に生き残ってしまったパンドラの、魂から分裂しただけの身代わりヤギ。400年の長い時間を耐え切れずに精神を病んでしまったパンドラ・が、これ以上壊れてしまうことのないようにと、水の一族がまだ病んでいない部分をから切り離し、この体の少女へとうつした。そして己はという生き物になって、海をさまよった。それが、そう、あるべきだった。

しかし、魂を分けることなど、可能なのだろうか?そんなこと、できるのだろうか。そして、なぜ精神を病んだを治療することなく、封じたのだろう。死体を動かすほどの技術を持った水の一族であれば、世の真理に元も最も近い血族であったのなら、不可能ではなかったはずだ。

この長い時間、が己の確たる意識を持って生きた400年間はと同じ量。何度も何度も、自身だって精神が壊れかけた。ノーランドのことがあった時に、一国を疫病で死滅させたときなど、このまま己が滅んでしまうのだとおかしかった狂気があった。だが、まだこうして己は精神を病まずに、いる。いや、そう思っているのは自分だけで、本当は傍目には自分はどこか来るってしまっているのかもしれないけれど、しかし、違うと、思う。

そしてなぜ、ノアは死んだのだろう。

「ほら、卿は何も知らない。忘れ過ぎてしまっている。これまでよくもまぁ、疑問に思わなかったことだよ」

カチャリとガラスの重なる音。見れば、目の前でティーセットを広げ優雅に足なぞ椅子の上で組み替えてくつろぐ姿。テーブルの上には砂糖菓子のたぐいまである。

「人の心の中で寛がないで」
「ほら、ひとつ思い出した」

にやりと笑う音、眼帯をした女のやけに、うれしそうな顔。







妹の声が途切れた。泣きわめく声は少しうるさかったが、それしかない空間ではそれ以外の思いも確かにあった。はしゃがみ込んで抱えた両足に、うずめた顔をあげ、傍らの妹を見下ろす。真っ青な目を閉じて、妹が唇を半開きにしていた。ぴくぴくと時折動いていた手足はどうだろうかと触れ、氷のように冷たい。のように体が成長していない妹は、半身以上を水に沈めていた。顔と、突き出ている指先ばかりは水面上にあったが、それ以外は水の中だった。

「……」

動かなくなった妹を眺めて、はどうすればいいのかわからなかった。触れて、やわらかな、頬を撫でる。髪はべっどりと濡れていて、額に張り付いている、それを払って、そこで初めて、は妹を抱き上げた。ぐったりとした、ただ重いだけの塊である。動かぬ。もう、動かないし、泣かない。それが当然となってしまったものを抱き上げて、膝の上に乗せる。

段々と眠気が、襲ってきた。この井戸に落ちてから、いや、生まれた時から、はっきりとした眠気など覚えたことのなかった己に、睡魔。このまま閉じてしまえば、己もすぐに動かなくなるらしいとはわかった。妹がこうなったのだから、自分もそうなるだろう。今更それが何だというのだろうか。妹のように、自分は外に向かって泣き叫ばなかった。ぎゃあぎゃあと始終泣いていた妹は生きたかったのだろう。だが自分にはそういう気が起きなかった。今もそうだ。こうして目の前で明確な終焉を見ても、恐怖はない。おそれなど。

「………」

ぽたぽたと、妹の頬に水が落ちた。
は目を見開いて、己の目に触れる。真赤な瞳から、零れ出る透明な涙、ぽたぽたと落ちていく。

「………」
「どうして、泣いているの?」

唖然とする己、その前にふわりと降り立った、真赤な髪のひと。は叫んだ。叫ぶ言葉は決まっていた。







ガシャン、と、は優雅なお茶会セットを手で払った。乱暴に落とされた茶器は水に落ちて、消える。ティカップを手に持ったままの姿で、その人は首を傾げる。

「続けないのか、×××」
「ぼくは、だ。ぼくは、×××じゃ、ない」

はっきり言って、睨みつける。ひるまぬその人だったが、しかし、やれやれ、と息は吐いた。

「お茶の時間を台無しにするなど、淑女のすることではないね」
「生憎とぼくにそういうオプションはない」
「おや」

面白そうに目を細めて笑われ、ティカップも消える。の体を抱き起こして、頬にかかった髪を払う。青い髪の、美しい人。これが自分であると、思っていた。自分は彼女の魂からわかれただけの存在であると。影法師のような存在であると、そう、思っていた。

自分が消えるとき、パンドラ・が目覚めるのだと、そう思っていた。
そして長い時間が彼女の心を狂わせてしまったのだと、そう、思っていた。

「ここから出なきゃ。こんなことして千年経ったら、それこそ笑い事だ。ぼくは、インペルダウンで、」
「何をするのだね」
「君はさっきから聞いてばかりだね」
「それが私の役だからね。しようのないことだよ」

ふむ、と、顎に手を当てて考え込んでいる。この生き物をは恐ろしいとは思わなかった。そしてこの生き物が一体何者であるのか、わかってきた。だが、それがなんだというのだろうか。

「ぼくはだよ。そしてパンドラ・の影法師。それでいい。それ以上の存在価値なんて、いらない」
「それで、そういう自分でインペルダウンに戻って、どうする。サカズキは卿と共に死んではくれぬという現実を有様にするのかね」

ぴくりと、の小指が動いた。先ほどうやむやにしたことの掘り返し。埋めた土は柔らかく容易くあらわになった。

「……言っただろう。ぼくは知ってたって。サカズキが一緒に死んでくれないことくらい、わかってるって」
「では、なぜサカズキが恐ろしいのだね。自分の命が惜しいのでも、その事実を突きつけられてサカズキを憎むのが恐ろしいのでもないのなら、卿は何を恐れてきたのだね」

はゆっくりと息を吐いた。先ほどは取り乱してしまったけれど、今、こうして、いくつかのことを思い出してしまった己には、落ち着いて答えられる言葉だった。

何もかもを、本当は知っていたのだ。けれど何も知らないふりをしていた。それが、この女の言うところのお姫さまであるということなのか、それはの知るところではないのだけれど、しかし、何も知らなければ、とても、幸福でいられていた。サカズキが仏頂面をしながらも、仕事の合間をぬって時折お茶をしたり、Siiとドレークをからかい倒したり、サリューのピアノを聞いたり、ミホークとドフラミンゴをいぢめたり、シャンクスと文通をしたり、楽しく、面白可笑しく、過ごしていられた。

その影で、その奇跡のような日々の中でサカズキが、苦しんでいたことに気づかないふりをしていれば、それはずっと続いただろう。約束を果たせずにサカズキが一人で死んでしまっても、それでも、それを「愛してくれていたんだね」とほほ笑んで、すべてその一言だけでしまいにして、あとは次の相手を見つければ、よかっただけだ。

けれど、そうはいかない。そんなことは、できなくなった。

「ぼくはサカズキが、すき」

昔、ずっと昔、ドレークが海軍からいなくなったときに、どうしてサリューを連れて行かなかったのかと責め立てた。あの時にドレークは、あいしているからサリューを危険な目に合わせたくないから、死なせたくないから置いていったと、そう言った。その時に、その、出来事で、は気づいたのだ。サカズキは、自分を殺してはくれないと。だからもう、その時から、その時に、サカズキを「嘘付き」とののしれなかった自分に、蓋をしていた。

きづいたら、なにもかもがおわってしまうから。

「サカズキが死んでしまうかもしれない、この戦争をぼくは止めたい。サカズキが、すきだから」

ぎゅっと手のひらを握りしめて言う、目の前の生き物が一歩近づいて、の頭を撫でた。目を細めて、初めて、辛そうな顔。彼女の顔は、母親に似ていると、ぼんやり思った。その白い手がの頬を撫で、目を覆う。何も見えなくなった。そして、響く声。

「卿の負けだ。リリス」


fin





 

・井戸の中のエピソードがやっと書けてほっとしてます。本当はもっと前に書く予定だったのですが、原作でインペルダウン編が始まったので便乗しました。ところどころウ/テ/ナのパロが入っているのであの名作をご存じの方はニヤリとするかもしれません。(2009/4/21 22:57)