カチャリ、と、何かの外れる音が頭の中で響いた。さらさらと流れていく、砂、のような、これまで心臓に立てられていた爪がきれいに剥がれおちたような、ずっしりと重くのしかかった全てが、あっさりと、消えたような、気がした。
「……あれ?」
クザンは手に持っていたペンを落とす。
これから白ヒゲとの戦い。世界が、世が、どう動くかわからない。そんな中、そんな、非常識な中で、大将である身の上の己、やらねばならぬことが多々あった。指揮等をするのは中将の役目である。大将は、その本当に「戦争」の時にこそ身をひるがえして戦うが、しかし、それまでは、膨大な量の書類(つまりは戦争するために必要な許可の申請)の処理に追われていた。
そんな中に、この、開放感。ぽろりと落としたペンが机の上に落ち、とどめたインクが書類の上にしみ込んだ。
「…………?」
何のことかわからぬのに、不意に、口をついて出た言葉。そしてボロッ、と、目から涙があふれてきた。かわらぬ、感情。のどの奥から引っ掻いたような、妙な声が漏れ、上がりそうになる。クザンは己の喉を押えて、眉を寄せた。この、呻き、この、乾いた感覚。そして、微かに、ふつふつと、湧き上がってくる、これは、歓喜の感情。クザンのものではない。この、覚えのない、しかし、はっきりとした衝動には過去に一度だけ覚えがあった。
ガタン、と、クザンは椅子から立ち上がり、倒れた椅子が机を揺らしてインク瓶が横倒しになるのも構わずに、部屋を出た。
生きるは毒杯
ばしゃりと水の音がそれはもうはっきりと、クロコダイルの耳に入った。
「はい、おっはー」
ポタポタと、の髪から滴る水がインペルダウンの牢獄の床に染みる。その背後にフン、となぜか自慢げに胸をそらした、長身に赤毛の海兵が片手にバケツを持った体勢で立っていた。
「呼ばれなくても飛びでてじゃじゃじゃじゃーん。パン子さんだ。とりあえずひれ伏せよ?」
そのとたん戻ったらしい停止時間。ざわざと騒がしくなる最下層の騒音はどうでもいいとして、トカゲはすぅっと目を細めた。目の前にいる、呆然と眼を見開いてぽたぽた、水を眺めている、眠りを無理やり覚まされたかのようにぼうっとしたまま、動かない。いろんなものが、感情が、記憶が揺り動かされているのだろうとトカゲにはわかった。ひょいっとバケツを捨てて、その体を抱き上げる。小さな体、弱々しい、が、その筋肉が若干、硬くなっていることに気づいて目を細める。
「海水はお前の意識に痛いだろう。すまなかったな」
「……トカゲ。おはよう」
焦点の定まらぬ目が、ぼんやりとトカゲを見る。隻眼でそれを受け止めて、トカゲは息を吐いた。己はこの子を守ると誓った。この子の剣に、牙になると誓った。だというのに。
「おれは間に合ったか?」
「ギリギリね、ありがとう」
の目はちゃんと青い。髪も、ちゃんと暖色をしている。だが、何か、違う。いや、だが、これはだ。そういう確信はまだあった。だが、何かが、変わってしまったような、そんな、気がする。それが何なのか、魔力を完全に失ってしまった己にはもうわからない。
ルフィが、あの麦藁の子供がここへ潜入している。先ほど蛇姫と別室で会った時に、を合流させてやればよかったと悔やまれる。
「……なぜおまえがここにいる?海の魔女」
思案するトカゲのその後ろからすっと現れたのは、インペルダウンの主どの。囚人たちも騒ぎ出す。止まっていたことなど誰も知らない。当たり前のように動き出し、そして当たり前のように驚いた。滅多にないこと。ぞろぞろと、インペルダウンの地獄へハンニャバルどの、そしてマゼランどののおこしである。口ぐちに何事かと囁き合い、じっと身を潜めた。
トカゲに抱きあげられたがゆっくりとマゼランに目を向けた。真っ青な瞳である。何、もしていない、とでもいうような、あどけない少女の眼。後ろの方でクロコダイルが「さっきおれぁ石を投げつけられたんだが」と呟くが、それはそれである。誰も気にしない。トカゲもスルーした。
海水でずぶぬれになっているのも構わず、ぼうっとはどこか虚空を眺めている。焦点の定まらぬ、なにか、わからぬ目。そのの小さな姿をじっと眺めて、マゼランがゆっくりと口を開いた。
「……まだ貴様の“部屋”は残っている。それを忘れたか」
ぐいっと、容赦なくマゼランの手がに延ばされた。その手が触れる前に、トカゲがさっとモモンガ中将の傍まで逃げた。
「中将、パス!」
「この状況で俺に振るのか…!!!?貴様…!!」
何かモノのようにひょいっと、を投げて渡す、モモンガ中将「え」という顔をしたものの、しかししっかりとを受け止めた。その姿を見て、マゼランの静かな怒気も収まる。
なるほど、しっかりと公約をご存じの方なのかとトカゲは納得した。は、罪人である。インペルダウンの所長殿、すべての罪人を処罰する権限を世界政府からいただいている。特権、でもあるのだろう。その特権、にも、海の魔女にも適応される。でなければ、例外のある「特権」などはそんなものは意味がないからである。しかし、海の魔女に危害を加えることは世界の正義に仇なすことと、その矛盾。だからこそ、世界政府は、海の魔女が海軍の元にある場合は、インペルダウンのいかなる権力も及ばぬと定めた。海兵は罪人を捕らえるものである。そして捌くのがインペルダウン、だからこそ、海兵のもとに、罪人が「留められて」いる状態であれば、まだそれは所長殿の及ぶところではない。
その公約の認められる海兵の階位は准将からであるから、トカゲではいけなかったとそういうわけである。
「ふ、ふふふ、心のそこから卿を頼もしく思うぞ、上官殿」
「物凄く『都合の良い時にいてくれた便利なアイテム』と変換されて聞こえるのだが。まぁ、いい。トカゲ、なぜがここにいるのかはあとで聞く」
その二本の腕にしっかりとを抱いて、モモンガ中将ため息をひとつ。いろんな感情をやり過ごした。この今の状況、確かにぐだぐだとやりとりをしている場合でもないらしい。トカゲはすぅっと目を細めて、そして何やらハンニャバルがエースの檻に向かって叫んでいるのが聞こえてきた。
「強く気高き世界一の美女!!「海賊女帝」ボア・ハンコックその人だ!!」
ヒューヒュー、と自作、自前らしいクラッカーまで用意してのご紹介。おや、とトカゲはこの状況であるのにクックと声を出して笑ってしまう。
この、今の騒動をシカトしてさくさくハンコックの紹介をしているあたり、あの男は見込みがあるんじゃないだろうか。すかさずマゼランにド突かれて「すっごく署長になりたい!あ、間違えた!すっごく痛い」などとほざいているが、それはまぁ、どうでもいい。
女帝どののご登場で、インペルダウンの囚人らが騒ぎ出す。一層騒がしくなる騒音。
「おぉおお!!!ホントかよ!!いい女がいると思ったぜ!!」
「あれが九蛇の蛇姫か!!!」
ぎゃあぎゃあと騒がしい中に眉ひとつ動かさずにエースの檻に向かい会話をする蛇姫を眺めて、トカゲはモモンガを小突いた。
「おい、上司殿、「俺の女になんてこと言うんだ」くらい言え」
「……お前、そのネタをまだ引っ張るのか……?」
あきれるモモンガはフルフルと震えているが、それはまぁ、トカゲの知ったことではない。別に本気でモモンガと蛇姫をくっつけようとかそういうつもりはなかった。それに先ほどルフィに恋する姫君を見てしまってはまぁ「青春!」とテンションを上げるしかないだろう。
できればここでポン、とモモンガの肩でも叩いて「ハートブレイク!」と親指立ててぐっと言ってやりたかったのだが、何のことだかさっぱりわからないと冷静に突っ込まれるのがオチである。いたしかたない、ということで、ここはそれを諦め、トカゲ、檻の中を眺め見た。
エース、エース、火拳のエースどの。炎の悪魔だ。トカゲとて、炎は恐ろしい。あの王国を燃やしつくした業火はいまだに身をすくませるほどにおぞましい記憶である。しかし地平線越えであっさり魔女の格を失ったからか、今は炎の悪魔をこうして眺めてもなんとも思わない己がいた。
そういう目で見れば、トカゲには面白いものだと思う。
エース、この戦争に引き金をなる男。が声を殺して泣くほどの騒動を引き起こした男。こうして、魔女でも、なんでもなく見れば思うのだ。この男、いや、この、青年。
(まだ子供じゃないか)
こんな、ほんの小さな子供が、こんなに大騒動を引き起こす。いや、本当の始まりはもっと前だろう。あの闇の悪魔が誰かの手に渡ったからか。白ヒゲの船が手に入れたから、いや、それよりも、もっと前。
こうなることは、もっともっと、昔から決まっていたのではないか。だというのに、たまたまその、「引き金」にさせられたエース。こうして良いさらしもの、か。そして、これから起こす全ての「犠牲」の現況とされるのか。
こんな子供に背負わせるのか。
「……この世で最も下卑た場所だな。ここは」
「うん?あぁ、そうだね」
ぼんやり思考に沈んでいたトカゲをモモンガの低いつぶやきが呼び起こす。はっとして顔を上げれば、いつのまにか蛇姫さまが子犬のように愛らしい表情しぐさで縮こまっている。それで挑発(男ってバカだなぁ)された囚人どもがギャイギャイ一層騒がしくなって、騒音、騒々しいだけではすまされない。
「ちょっと!!署長!!それ私たちも危ねぇ!!コワイ!!」
どうしたのだとトカゲが問うより先に、どろっとしたものが流れる音がした。それと、独特のにおいにトカゲの眉がぴん、と跳ねる。
「おや?」
先ほどの浮ついた騒音とは違う、悲鳴が牢獄に響いた。
「この監獄のボスが誰なのか…お前らには教えてやらにゃわからんらしい……!!!」
おや、おや、おやまぁ、とトカゲは片方しかない目を丸くする。そういう能力はある、とは聞いていたが、目にするのは初めてだ。へぇ、と感心して首尾を傾げる。
「ドクドクの実。毒の悪魔か。竜まで出せるのか?へぇ、なんでもありなだな、能力者」
「貴様にだけは言われたくないな。そういえば、毒見が趣味と言っていなかったか?試してきたらどうだ」
「ふふふ、口移しされたいのか」
ここまで毒はやってこないとわかっているからこその談話。モモンガも軽く参加してきたが、次いでのトカゲのセリフに顔を引きつらせた。だがしかし、トカゲ、海軍海兵に志願するときに書いた書類にはしっかり「趣味:毒見。赤旗いぢめ」と書いた。今はそれにモモンガイビリも加えたいと思っているのだが、などと口にだせばどんな反応をするだろう。
ふむ、と、マゼランの毒を眺める。
ルフィがエースを救い出そうというのなら、必ずマゼランがその前に立ちはだかる。いくらルフィといえど、いや、どんな屈強な生き物でも、毒にはかなわない。ほとんど不死、不治を誇るとて、毒で何度痛い目を見たか知れないものだ。
その時に、ルフィが死なぬようにするために、ここでマゼランの毒を採取して解毒うんぬん、という手を持っておいた方がいいのだろうか。
しかし、不可能である。トリアイナのsiiやレイスならともかく、トカゲの解毒の知識はあくまで趣味の範囲だ。マゼランのあの毒はトカゲにどうこうできる代物ではない。
毒見が趣味なのはのためだ。ただの人間になり下がった身とはいえ、それでもほんの少しは、並の生き物よりも頑丈にできている己。毒のたぐいを乱暴に口にしても、なんとかなる。あれこれ耐性をつければが毒で苦しむこともないだろうと、そういう見当で趣味にしたにすぎないのだ。とて毒で死なぬのだから、トカゲの毒に対する知識はあくまで「ちょっと知ってます」という程度。
マゼランの呼び出した毒の竜は、その毒々しい腹を見せながらシュウシュウと煙を吐き散らし、しかし、ゆっくりと消えていく。
「さァ、ハンコックどの、ゆっくりと話を」
なんて気分爽快に言う男、これがインペルダウンの所長殿である。
FIN