懐かしい己の“部屋”を前にして、、うっとりと眼を細めた。そのままついっと、冷たい石の壁に手をつけて、目を伏せる。何もかもを、このままなかったことにしてしまって、そしてここで全てが終わるのを待ってしまえればどれほどに楽だろうか。だがしかし、そんなことはできない。そんなことはもうしない。これまでさんざん逃げてきたのだ。あぁそうだ。己はこれまでよく、逃げてきた。いろんなことを、いろいろ知らないとそういう顔をして泣くことで、わめくことで、しおらしく押し黙ることで、いろんなものから逃げてきた。都合よく、いろんな人が守ってくれた。

(でも、もう、そんな必要はないんだよ)

小さく、小さく、口の中で謝する。誰に対してか、己の一瞬では判じかねる。謝らなければならない人間が多くいすぎる。そして、これから己のすることで、どれほどの人を苦しめるのかも、知っていた。だから、もう、何も謝ることはないとも、思う。

「……まさか、また貴様に会えるとはな」
「やぁ、酸の雨の懐かしいひと。シリュウ。てっきり死んでしまったと喜んでいたのに、まだなぁに、息の根、止まっていなかったのかい」

ひっそり己の部屋の前から聞こえてきた低い声。は目だけに笑みの形を作って振り返り、その先、昔はインペルダウンで権勢を誇っていた男を眺める。マゼランとは違い、ずいぶんと愉快な男だった。雨の、なんて呼ばれているが、からすればこの男こそ「毒の」とさしてやりたいところ。能力が、ではない。その存在そのものが毒のような男。一瞬の脳裏に、この男をここで殺しておいた方が後々いいんじゃないかとか、そういう思いが浮かんできたのだが、しかし、シリュウと言う男、その残酷さがいまのには妙に心地よかった。それで、そんな、わずかないたずら心、シリュウの檻に手を伸ばす。

「ねぇ、紫陽花の君。ぼくこれから人を一人殺ってこようと思うんだけど、一緒にどう?」

っは、と、檻の中から低い、侮蔑を含んだ笑い声。けらけら笑う狐のような、声。その笑い声の響く余韻、消えぬままに、リシュウの一言。

「罪人に手を貸すものか」

はっきり、きっかり吐き捨てられた言葉。も声をあげて笑った。




灼熱燃え滾る



この灼熱のフロアでドンパチ始めるなんて空気読まな過ぎじゃあないかとトカゲ、自分のことはサクっと棚に上げてぼんやり思う。傍らではバギーやミスター3があれこれ今後の相談。それはまぁ、別にトカゲの知るところではないのだけれど、しかし、こう、暑くて汗の出る使用のない中、全身が毒のカンタレラ、じゃなかった、マゼラン殿が戦闘態勢。息を吸うだけで生き物が容易く死ねる状況になるだろうというところ。

マゼランと対峙したルフィは、目の前の人間、誰かはすぐに判断できぬものの、傍らのオカマが知っていて、その正体を叫ぶ。

「ム、麦ちゃん戦っちゃダメよーう!!!!そいつはインペルダウンの監獄署長マゼラン!!!ドクドクの実の能力者なのよう!!!」

そいえばトカゲはいろいろ突っ込みを入れたいのだが、あのオカマは何でそんなにインペルダウンの情報に詳しいのだろうか。マゼランの能力は、まぁ有名と言えば有名とはいえ、しかし一応公言はされていないことである。その上インペルダウンの地理についても先ほどあのオカマは詳しかった。情報は武器、だと言うが、どう奪ったのだろう。そんな興味がふつりと湧いて、しかし、囚人、であれば周囲から耳に聞く情報でそれなりに知れる、いや、知らねばならぬ問題なのかもしれぬとは思う。
それでさて、とルフィたちの問答を見る。先でルフィとオカマが何か話している。オカマはルフィに逃げることを進めているようだが、しかしその前にマゼランが希望を容赦なく積み上げた。

「レベル5の階段前には獄卒長と3人の獄卒獣が控えている」

その指示は先ほどからトカゲも聞いていた。あの子、あの、、もマゼランのその指揮を予測していた。その上でトカゲをここによこしたのである。マゼランが毒竜を出した。すべてが毒の塊。先ほどトカゲもレベル6の牢獄の前で見た。

毒竜の毒はマヒ性の神経毒だろう。全身に死ぬほどの激痛が走って、しかし痛みでは死ねぬ。激痛で、しかし身をしっかり毒素に苛まれて死んでしまう毒だ。なかなか、拷問には適していると先ほどちらりと眺めてぼんやり思っていたのだが、それがいま再度目の前。しかし、やはりルフィはマゼランを攻略せねばエースの元へは向かえぬ、という己の予想は当たったわけで。いやぁ、やっぱり解毒剤って大事ですね、なんて空とぼけて思ってみた。が、しかし、今は解毒剤の必要性をそれほど感じていない、という己がいる。

マゼランの毒に巻き込まれて獄卒どもが良い具合に飲み込まれていった。程よい叫び声を聞きながら、トカゲはバギーたちを振り返る。

「で、卿ら。話しはついたのか?」
「君が何者かは知らんがね……今、レベル3への警備が一番手薄、このことに間違いはないかね」

素直にトカゲは頷いた。マゼランたちが最も恐れていることは、麦わらのルフィがエースのいるレベル6まで下りて、かの罪人と接触することである。たとえレベル6に下りたとしてもそこから逃げだすことこそほとんど不可能なのだがしかし、インペルダウンのメンツにかけて、今回の重要人であるエースと、海賊風情の接触だけは避けたいのだろう。そういう矜持なのか最後の何かなのかはトカゲには心底どうでもいいが、ということは、レベル3への階段、ハンニャバルが守っている場所が、この地獄の釜のような状況の中ではまだマシ、ということである。

「やがて麦わらは負ける!その前に我々はレベル3に上るのだ!!!」

ふらり、とトカゲが見れば、戦闘を続けるルフィとは違い、例のオカマが逃げだしていた。おや、と眼を細めながら暫く、さて、そろそろかとトカゲは時を図った。

「まぁ、ハンニャバルどのの強さはそこそこだ。卿ら二人がちょっと命かけてがんばって気合い入れて死ぬ気でやれば倒せるかもしれんぞ」
「なんだそのあやふやさは!!!てめぇやっぱりだろう!!」
「だから違うと言っている。ふ、ふふふ、あぁそうだ。から卿に伝言があったのだよ」
「は?」

途端顔を幼くする、バギー。その道化の化粧の先は随分と老いて来ているだろうに、あのころの海、ロジャーの船にいた人間は、どいつもこいつもいつまでもいつまでも、若々しいところがあるもの。懐かしい、と己の世界を一瞬回顧、だがそんな場合でもない。トカゲは残った左目をさらり、と長い前髪で一度隠し、再度バギーを見つめる。

「『君はもう笑いたくなるほど弱っちぃんだからさ。大人しく引っ込んでなよ。インペルダウン脱出なんて、君には過ぎたことだよ』だとさ」
「喧嘩売ってんのかテメェこらッッ!!!!!」

言ってひょいっと、バギーのその、白髪なんですかというような頭にトカゲは自分の帽子をかぶせた。
ケラケラ笑いそう、伝言を、と言った時のの顔を思い出す。あの時は、あの子はちゃんと、口も目も、顔も、声も笑っていた。

「卿、死ぬなよ。バギー、道化のバギー。卿は数少ない、の気に入りだ。卿が死ねば、それはそれで別にどうということもないんだが、それでも、バギーがいればは楽しい」
「だったらテメェ、ここから出る手伝いをしやがれってんだ!!さっきからなんだテメェは!に似た顔しやがって!!それでちがうってのはなんだ!!!?」

の伝言、どうやら何か、バギーの間にいろいろ思い出されることがあったらしい。ぐっと、その年老いた顔に、眼尻に、汗ではない何かがわく。それをトカゲがどうにか思う前に、ミスター3の声。

「そんなことより!!素早く行動するに限るがね!!覚悟を決めろ!私はもうこんな熱いフロアごめんだガネ!!!」

そう言って、ひょいっと、飛び出してしまう姿。相棒、と呼んでいたからにはバギーもそのままひょいっと続いて行った。一度トカゲを振り返るような素振りをしたのがトカゲには面白い。それを眺めて、トカゲ、さて、と、息をついた。

マゼランとルフィの攻防。すでにどちらに分があるのか、はっきりと知れたところらしかった。

「……まだ。大人しく捕まる気にはならんか」

低い、マゼランの声。毒は含んでいても、怒気は孕んでいない男の声。トカゲは以前が「マゼランは怖いけど、酷くはないよ」と言っていた言葉を思い出す。毒の枢機卿殿。そういえば以前海軍でトカゲがまだ多少はまじめに仕事をしていたころ、インペルダウンにはもうひとり、恐ろしい能力者の男がいると、そう聞いたことがあったのだが、それは誰なのだろうか。

マゼランと対峙したルフィ、身を低く構えて叫ぶ。

「エースを助けだして、ここをおれは出るんだ!!会えもしねぇで死んでたまるか!!!!エースを処刑になんてさせてたまるか……!!!!!」

叫び声。幼い子供の、悲鳴のよう。いや、だが、我まま、道理を道理と受け入れられぬ、子供、のもの、ではない。素直さを持ち合わせていながら、しかし、理不尽、世の条理であろうと、己の心の許さぬことは消して受け入れぬ、強い心ゆえの叫びであった。トカゲは、目を見開く。

(おれは、本当にの願いをかなえていいのだろうか)

負けるくらいなら腕すらくれれやると決意をするルフィの、一撃がマゼランの腹部に入った。



Fin