もうすでに随分と昔のことを思い出した。唐突に、あぁ、そうだ。あの懐かしい王国の、お師匠様の塔の中に住んでいたころ。兄弟子のアマトリアと、一緒に上ったアダムの樹。巨大な王国を見渡せる、巨木の中にあって、どうしてアダムはあるのにイヴはいないのかと、そんな問答を三人でした。アダムがいればイヴがいるのが当たり前だとその頃教えられていて、だからアダムが存在するのならイヴという神木もなければ、それは道理にならないのではないかと、三人頭をひねらせていると、その中にころころ、お師匠様がやってきて、笑う声。
「アダムの妻は、何もイヴが最初ではないのですよ」
穏やかな声で、穏やかなまなざしでいつも言う、そのお優しいお師匠様。己らはその声を聞くのが好きで、とりあえずアマトリアは黙って持ってきた詩篇の本をとっさに隠し、は証拠隠滅のためにとりあえずお師匠さまを木から突き落とし、そして己は。
「ただいま」
カチャリ、と扉を開けて、素直に驚いている男を眺めた。ちょうどお茶でもしていたらしい、どっかりテーブルに座り込んで、お前本当マナーとかカポネに叩き込まれてこいとトカゲがいれば突っ込みを入れただろう状況、白いティカップから上がる白い湯気、アプリコットジャムの瓶、甘いクッキーなどがちゃんと白いテーブルの上に置かれている、お茶会の風景。しっかりと時計まで、いくつも、いくつも、いくつもおかれている。どこぞの公園で時間くんでも待つ帽子と鼠のようだとぼんやり頭の隅で思って、は首をわずかに傾けながら、にこりと微笑んだ。
「ただいま、ドフラミンゴ」
まだ、君の帰る場所は燃えていないか
タン、ガチャン、と、そういう音が耳のはしで聞こえる音。
が微笑んだその直後、いやそれとほぼ同時くらいに、ドフラミンゴ、テーブルを踏みこみ、その拍子にテーブルの上の小さなシュガーポットが落下して、それで、そんなことを構わぬまま、力いっぱい、の小さな体を抱きしめた。細い、小さい、やわらかい体、己の二本の腕に抱きいれて、ぎゅっと、頭を抱え込んで抱き締める。ピンク色のコートの羽根の中にの暖色の髪が埋もれた、あまりに勢いをつけたせいでの体が受け止められるわけもなく、半分押し倒すような形になった。それでも衝撃、が受けぬようにとその注意だけは無意識にできた。笑いたけりゃ笑うがいい、海の王者の一角、冷酷外道、利害がなければ動かぬ男と風評高い、ドンキホーテ・ドフラミンゴ、たかがこんな小さな生き物一人に必死になって普段の彼からは創造も出来ぬとせせわ笑われたってもう構わぬ。失うと思った。どんなに手を尽くしても、もうどうにもならぬのではないかと、己、あまりにも多くを、の介する情報をほとんど知らぬゆえの恐れ、あったからこその、恐怖、にわなないてしようのなかったこの数時間。脅え、恐れるなどルーキーのころだってあまりなかった性分、外道性があっさり瓦解してしまっていたのだ。これはもう、どうしようもない。どうしようもないほどに、己はが大切なのだとよくわかった。
「ドフラミンゴ」
の肩に顔をうずめて沈黙するドフラミンゴの頭をそっと、の手が触れる。てっきりすぐに「寄るな・触るな・離れろこのハデ鳥バカトリ阿呆鳥」と普段の罵り、それすら挨拶とドフラミンゴは受け取る、普段通りの展開になるかと、そう思った。ぜひそうしてくれ、とも思った。別にマゾっ気などは持ち合わせていないけれど、しかし、そういう普段と変わらぬ流れになってくれて、そして、もうがインペルダウンに行ったなどという事実は最初から存在しなかったのだと、そういう風に扱いたかった。しかし、は、普段の「ハデ鳥」とドフラミンゴをののしる時の、一切興味、関心のないさめざめとした声、ではなくて、いつも、サカズキを、あの気に入らぬ大将どのを呼ぶときのような、穏やかさを含んだ声で、ドフラミンゴを呼んだ。ぴくり、と動揺。ドフラミンゴは目を見開き、そして、顔を上げた。
「…、」
「だいすきだよ。ドフラミンゴ」
「……」
顔を上げた先、目の前にはの大きな真っ青な目。きちんとドフラミンゴを見、写している。死に至る病を思い出した。あれは、確か随分昔に、幼いころに読んだ本、いろんなものを封じ込めた箱を開けてしまったバカ女が最後に箱から見つけたものと同じ名前だったのではないか。その、絶望というふた文字がドフラミンゴの中にもめぐる。
「……フ、ッフフッフフフ」
声が掠れた。血でも吐くような心持。それでもぎゅっと、を抱きしめる腕だけは弱々しくもならぬ。はただ微笑んでいるだけ。言われた言葉、長い間、その目を、その言葉を自分に向けるために様々なことをしてきた。嘘などつける生き物ではなかった。は、そういう生き物だった。それを知っていたから、だから、その言葉を己に向けさせるときを、ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと、願って来た。
それなのに。
「嘘だろう。フッフフフフ。嘘だってことくらい、おれにもわかる」
笑い声が漏れる。堪え切れぬ、あふれ出す、心。は、嘘を言う生き物ではなかった。しかし、今の言葉は嘘だった。嘘だと、わかる。がこちらを向くことを願いながらも、しかし、そんなことはならないと頭のどこかで知っていたドフラミンゴ、だから、どうにもならぬことをどうにかしようとする心、奇跡でも起きぬ限りは不可能だと思って来たのだ。どんな心境の変化、時代の流れがあったとしても、は、ドフラミンゴを思いはしない。そんなことは、ありえない。
だから、は嘘をついていると、わかった。そして嘘をつけるはずのなかった生き物が、嘘をついている、その事実。もう、手おくれなのだと、知った。
「大好きだよ、ドフラミンゴ」
それでもはほほ笑んで、ドフラミンゴの強張った頬を優しく撫でる。己の無力を、噛み締めた。こんな思いはどれほどぶりだろうか。無力、何もできぬ己が嫌で、ドフラミンゴは「こう」なったのではなかったのだろうか。ローグタウンでの処刑を見て、いろんなことを思った、昨今の海の強者たちのように、ドフラミンゴも、歯を噛み締めて、感じたことがあったのではないか。
それなのに、己はあの頃と何も変われていなかったのだろうか。
(いや、違う)
ぐいっと、ドフラミンゴはの体ごと起き上がって、ちょこん、と、その小さな体を抱き上げた。
「フ、フッフフフフ、で?何が狙いだ」
己はあのころとは違う。体も大きくなった。頭だって、マシになった。もう鼻をたらしたガキじゃあない。知らぬことはまだ多くあるだろうが、しかし、できることだって、増えてきただろう。傲慢、尊大に笑みを漏らして見せて、の顔を覗き込む。
「それで、この俺に何をさせたいんだ?海の魔女」
インペルダウンに行ってただ「見物してきました」というだけではあるまい。何か、を、この生き物は決意した。あるいは、自覚してきたのだろう。それで、この行動。では、己は何かに求められているのだということが容易くわかった。
(裏切ってやる)
求められるカードを、心地よく提供してやろうとドフラミンゴは決めた。そして、最後の最後で、この魔女を裏切ることを自分はしよう。悪意ゆえ、ではない。自分はまだ、の、のことを何も知らなさ過ぎている。ミホークやサカズキと同じ位置にはとうてい立てていない。だがここで初めて、が己にかかわらせようとしている、これは、これまでに一度とてなかった機会である。
の望むとおりにすれば、の願いがかなう。その願い、は、おそらく自分や、鷹の目にとっては「ロクでもない結末」ということだろう。なら、自分はその最後の最後、の願いをかなえてやって、それで、その最後に、を裏切ってやろう。
「君なら良いと思ったんだ」
そのドフラミンゴの心中など知るところではない、喜々とした様子で、きらきらした目を向けて話す。
「君が苦しもうと、悲しもうと、傷つこうと、僕は構わない。これっぽっちも、なんとも思えないからね。だから、協力してね、ドフラミンゴ」
大好きだと囁いたときと同じ声音、同じ瞳で、言う言葉。これなら普段通り、興味の一切ないとさめざめした目で、声で言われた方が幾分かましだったと思いながら、ドフラミンゴはそれでも笑う。
「フッフフフッフフ、酷ぇな」
「あいしているよ、ドフラミンゴ」
解っていても、それが全て嘘だと、わかっていても、それでも。離せない。失望できない。とん、と、の体を床に降ろして、見下ろす。
「なら、最後まで覚悟しておけよ」
「そうだね」
「お前の一切、これから、死ぬまでこの俺の物だ。その髪の一本、頭のてっぺんから足の指のつま先まで、一切、合切、この俺のモノだ」
所有の宣言、であるというのに、まるで己がに忠誠を誓う言葉のように思えた。己の性分ではなかったが、ドフラミンゴはのその左手を取り、腰を曲げて薬指に口づける。
「俺はこの白ヒゲ戦、××××をするだろう。その傍らに、お前を置く。それで、いいんだな?」
の頭がこくん、と頷いた。それこそを、この魔女は望んでいるのだろう。白ヒゲ戦への、戦力しての参加。海軍本部の大将殿の傍らにいてはまずできぬこと。どうせあの男は土壇場になる前にをどこかの海に逃がす手はずでも整えていたに違いない。ドフラミンゴだって、本当はそうしたかった。だが、しかし、そんな生ぬるい手ではもう、どうしようもない。
これからやらねばならぬことを頭の中で組み立てた。エースの公開処刑まであと25時間。
「フ、フッフッフフフフ!!!付いて来い!遅れるな!!!!荒れる海を行くぞ!!誰も彼もが死んでいく後悔ばかりの航海!急いで準備を整えろ…!!逃げ出したけりゃ、」
「逃げないよ。僕は散々逃げたんだ。ドフラミンゴ、さぁ、行こう。行って、逝って、散ってしまおう」
とん、と、はデッキブラシを振って取り出し、颯爽と前に進んだ。その背の美しさ、かつて彼女が「きれい」だと称した女海兵に少し似ているような、気もしなくもない。ドフラミンゴはサングラスの向こうの、やや視力の落ちた眼を細める。何もかもが、すでに手遅れ、と突き付けられる。無力、ただいじけるだけなら、そんなものはただのルーキーがやればいい。己は、己は、チンピラ風情ではない。ならば己は、己らしく、利用、してやろう。何もかもを利用してやる。この時代、状況。何よりも大切な、すらをも利用して、やろう。
(愛して、いるんだ。本当に)
Fin
(絶対に報われない、だから、なんだ)