コツンと足音ひとつ、壁に叩きつけられては「ぅ」と小さく呻きを漏らした。乱暴に押し付けられた腕、壁に背を打って眉をしかめる、反射的に上げた顔、顎をぐいっとつかまれて、そのまま口付けられた。肺にまでその勢いが届くんじゃないだろうかと思うほどの荒々しさ、別段拒む理由も、それだけの抵抗力も持ち合わせてはいない(一瞬は確かに怯む心があった、嫌だ、と拒否をする心があった。が、それはほんのわずかなものだ)見開いていた目を閉じて、男の口付けに応える。と、遠慮もなくの口内を犯していた舌、空いた手でしっかり腰を抱いていたが離れる。飲み切れずに溢れた唾液が唇を濡らし、一度ぺろりと指で拭ってから、きょとん、とは首を傾げた。
「嫌なの?鷹の目」
細めた眼、手を伸ばして男の頬に触れる。口元の髭をそっとなぞってそのまま唇に指を当てれば、男の薄い唇が言葉を吐くために震えた。
「貴様、何者だ」
顰められた顔、苦しげに噛み締められた唇から歯のこすれる音。きっとこれから自分は、大切だと思っていた人たちにこういう顔ばかりをさせるのだろうと思い、、溜息を吐きたくなるほど面倒になった。
「僕は僕だよ」
か細い声、補足、鳴る
世の喧騒も大騒動もここまでは侵しきれぬのだろうかと、は噴水を眺め歩きながらぼんやりと思った。そういえば、もう結構な時間を自分は生きてきたはずなのに、己の意思でこの場所に出向いたのは、まだこれで三度目だと気づく。それも道理、であるかもしれぬこと。何しろと真っ向から敵対する勢力の、姿。星を巡る長だなどと、大それた名前。別段それにケチをつける気は今のところにはなかったのだけれど、もし、この場所が、明日の15時までに木端微塵に壊滅、破壊されるようなことがあれば例の騒動は如何してくださるものか。
(まぁ、それはどうでもいいんだけど)
ふわりと、欠伸をひとつ。どうも眠い。どうしても眠い。あと何時間くらいあるのか、やはりクロコダイルに砂時計を作って貰えばよかったと少しの後悔。だが眠るときは眠るもの、というあきらめもある。あとはどうとでもなればいい、というのはあれだ、ヤケでもなんでもなく、興味があまりないからだ。
「あ、貴方は……!!」
の目的の建物、相変わらず窓もない優雅なつくり。どこぞの神殿を思い出させる白柱。その入口とも言える階段の下に控えていた海兵、役人がの姿を見止めてざわめいた。下っ端連中などではない。仮にも五老星の居住の警護を任される者である。当然に、の、世界の敵の存在は了承済み。驚き慄きの声の上がること。はうろんな目で「呼ばれたから来たんだよ。そこを通しな」とあっさり言う。役人ら、顔を見合わせたものの、五老星のおよびであれば世界の敵の訪問もありうることと、そう了承したのか、あるいは世界の敵の機嫌を今この場で損なうわけにはいかぬというのか、態々五老星に確認もせずあっさりと通す。
ありがとう、などと心にも思っておらぬ感謝を吐いて、にこりと笑う。どのみちロクなことにはならぬと思いながら嘘、仮面を作るたびにの身が重くなる。やっぱり己はウソップのように良い嘘がつけないらしい。
ふわりふわりと、階段を上がるたびにの髪が伸び、揺れた。一段一段上がりきちんと段差を数える。全部で108段。何のつもりだと一度叩き壊してやろうかと58段目で思った。己に悔い改めることがあったとしても、それはすべて己の基準での悔いであり、世をどうこうのものなどではない。
「やぁ、態々この僕が来てやったよ。感謝しなよね×××」
階段の上で待ち構えていた老人の一人の名を呼んで、は軽く手を上げる。君臨する5つの星。総となった時に彼らには「個」というものがなくなるのだそうだ。彼らが政府であり、政府が彼ら、でなければならぬと、そういうふうになっているそうだ。ただの人間が、そんな大層なことをできるわけもないと、それは所詮何れは独裁になるのではないかと、それはただの俗物の思うこと。昔ネズミを追うしか能のないただの猫が長靴を履いた途端に世界の悪意に勝ったと、そういう話だって残っている。生き物というのは、いや、万物というのは定められた枠から出る奇行をすれば何にだってなれるものである。
だから、世の正義を束ねる身になった長たちはもはや人間という道理を持ち合わせはいないのだろう。
黒いスーツの男が、コツン、と踵を返しに背を向けた。ついてこい、などと言われずともついていく。すたすたあとを続けば、白亜の美しい建物、の中に四人の老人。それぞれの名を一度ずつ呼んでやってこの魔女が世に呼び戻してやろうか、などという鬼畜な心が浮かんだが、しかしそれは、やはり面倒だ。今は眠気が強すぎて、何もかもが億劫になるらしい。
しかし憎悪に関しては話が別。はスッと前に進み出て、老人らの中で唯一白い着物をまとった男の、頬を張り飛ばした。
ぱしん、と乾いた音。けしてただ椅子にふんぞり返ってばかりで上位に来た連中ではない。それぞれ歴戦の勇士、のただの平手打ちなど皆見きれただろう。それなのに避けずに受けた。は加減をしなかった。首の骨も一緒に折る気だったが、彼らの防御力の方が強いに決まっている。
「痛い。そこはあれじゃない?素直に吹っ飛ばされてくれるのが優しさじゃない?」
「世の咎人に向ける慈悲などない」
逆にの手が痛み、眉を寄せて手をさする。それで恨めしげに文句を言えばにべもなく返された。息を吐く、呆れているのはどちらも同じ。あまり化かし合いは趣味ではないと、背後の一人が言った。も同感である。それで、ひょいっと指を振って椅子を出しどっかりと座りこむ。眠いので立っていると無駄に体力を使う。と言って座れば即行眠りの淵に沈みそう、ではあるのだが。
ふんぞり返って、、さめざめと息を吐く。
「で?思い通りになってよかったね、とか僕は言うべき?それとも恨み事?」
「どちらでもお前の好きにするがいい。夏の庭の魔女」
「ふ、ふふふ、ふ、ふふ。もう隠す気もないんだね」
老人のため息。と違い、こちらは長きの策が大成故のこと。もう一回、今度は殺す気で殴り飛ばそうかとは思ったが、しかし、それよりも今は確認することがある。
「いつからそうと決めていたの?」
短い問い。こうした、複数の意味をはらむ問い方は好みではない。人を試すような傲慢さは持ち合わせていなかった、が、しかし、この場合は良いだろう。老人がぴくり、と眉を動かした。
「聞いてどうする」
「そうだね。君たちの目的はわかったし、最近の奇妙な行動も、結局はこれを狙ってのこと、なら納得できる。でも解せないんだよね。400年前の目撃者は全員その場で殺したはずなんだけど」
「だからこそだ。一夜にして五万の人間が死んだ。ただ、パンドラ・を守るそのためだけに、貴様らが殺した」
風の音というのはどこでも聞こえるものなのだと、紙のパラパラめくれる音を聞いてぼんやりと気付いた。白いテーブルの上に乗っているのは古びた背表紙の本。妙に見覚えがあるのはいいとして、、あれって全巻燃やしたらどうなるんだろうかと外道なことを考える。その目線に気づいたのだろう、老人の一人がさっと、本を閉じた。
は椅子の上で足を組み替え、肘掛に肩肘をついた。そのままゆっくりと体重を背もたれに預けて薄気味の悪い笑顔。
「それで400年をかけて、この僕を殺す算段か。御苦労なことだよ」
ふわりふわりとあくびばかりが出てくる。自分で言って、とうに死んでいるものを殺す、というのは何か言葉が違う気もしたのだが、まぁ、ほかにふさわしい言葉が見当たらないのでしょうがない。
干上がった老人のかさりと乾いた肌、十字に走った傷や痣、病、戦を飛び越えて今この場に立ち、世界政府という一つの世界を守る老人たち。さかしい、さかしい、頭が良すぎるから厄介だ。とて経験などでは並の生き物をあっさり超える自覚はあるにしても、しかし、五老星と自分。策を巡らせればどちらが上かなどはっきりしすぎてしようがない。
「知ってたんだね。僕が、ではないということ」
「当然だ。我らは、歴史の監視者。調整者として君臨している。知らぬわけがあるまい」
これでもこっそりこそこそとやっていたつもりだったのだが、しかし、あっさりバレていたのならもっと堂々としてもよかったのかもしれない。
しかしつい先ほどインペルダウンにてやっと昔の記憶を取り戻したとしては、まぁ、別にどうでもいいとは思う。
全く、面倒くさいことをお互いにしたものだと、つくづく思った。
彼らにとって、“世界の敵”など、世の正義の定義としての罪人の存在など、実際のところは、あまり重要ではなかったのだ。別にが誰であれ、が誰であれ(もっと簡単にいえば、王国の生き残りであろうとなかろうと)そんなことは、関係なかったのだ。
「貴様は世に存在してはならない。リリス。夜の女、悪意の魔女よ」
「ただ一人、己の姉を救うためだけに万の命を奪う気様は、死なねばならない」
「そして貴様の姉も、も、死ななければならない」
低い声が、はっきりとした宣言。はぴくんと眉をはねさせる。
「400年もかけて、僕をパンドラ・、世界の敵の影法師“”として彷徨わせて、僕と、の消滅を図るそのために、こんな面倒なことをした。暇なの?」
「消えろ、と言えば首を括ったか」
「そんなことで死ねる優しさは持ってないよ」
「400年でケリがつくとは思わなかった。あと100年は覚悟していた」
赤犬の存在が、との消失を早めたのだと老人が言う。それは否定しない。冬薔薇を無理やり己の力とし、そして記憶がないとはいえ、苦しみに悲しむの心を奪い、に「愛しい」と心から思わせたその人。彼が大将でなければ、こうはならず、しかし、大将であることを価値にしている人間ではなかったから、は、井戸の中で死んでいった双子の片割れ、リリスの記憶を取り戻し、の眠りの守人としての資格を失った。
今のは「やられたよ」と悔いる心が多いが、記憶がなかった自分が、あっさり赤犬に惚れてしまったのは、まぁいたしかたなかったのかもしれない。
何しろ、400年という時間、罪人として世に責められる長い年月は、人が正気を失うには十分だ。病んだ心の支えを求めるのは、少女ならば当然のこと。
(それにしてもあと3、4百年くらい頑張ればよかったのにねぇ、ぼくも)
他人ごとのように思うが、自分の行いである。どう責めようもない。
それでため息を吐いて、はひょいっと椅子を下りた。
「君たちの思惑通りに運ぶのは、まぁ腸が煮えくり返るほど気に食わないけどね。でも、まぁ、しょうがないんだよね」
「気付かれたとしても支障のないように運んだのだ。今のお前は、もうそうするほかあるまい」
「僕の体はあと48時間ほどで焼失する。それは別にいいんだけどね。それでパンドラ・が目覚めると、狂女のまま手のつけられない人間を世に放っちゃうわけだ。は狂っているけれど、意識の奥底に彼女の正気が潜んでいるんだよ。自分が世に悪意をばら撒くのを見たら、優しい姉さんはとても悲しむだろうね」
ぼんやり、いや、あの外道で鬼畜は心を痛ませるようなことはないだろうけれども、とは思う。しかし、狂った彼女をそのままにはできない。彼女があぁなったのは、の、リリスの所為なのだ。そうと知っていて、そのまま自分だけあっさり消滅、なんてことはできない。
はふわりふわり、とあくびをした。とても眠い。
「パンドラ・。“世界の敵”はこの僕が殺す。それでいいんでしょう?」
Fin
(ずっと変わらず、このままでいて)