極寒地獄に放置されて暫く、トカゲの意識も寒さで遠のいてきた。それで、何やら騒がしい音。狼たちの声がか細くなってくるようなので、おや、今度はどんな珍事があるものかとうっすら目を開く。
(……この男は、確か)
ガクガクと雪に震え、寒さに体じゅうの機能が奪われながらも、それでも、真っすぐ立って、麦わらのルフィを見下ろしている、オカマ。確かアラバスタを出る時に、が「助けてくれた」と言っていたのを思い出す。
友情だとか、なんだとかで、助けてくれたという話。
その男が、あちこち、いや、全身ぐっしょり己の血で濡れ(凍りついていたが)ながら、必死に叫ぶ。
「麦ちゃんを、助けにきたのようぅっ!!!!!!」
叫ぶ度に、血を吐く。どう見ても、助けようとするお前自身ももうすぐ死ねるだろうと、それがわかるのに、それでも、助けると、そう強く言うのだ。
「……お前、逃げなかったのか」
確かトカゲが最後に見たとき、この男はマゼランに背を向けてどこぞへ去っていくところだった。いったいこの牢獄でどう逃げようというのか、と笑うところでもあったのに、しかし、この男。どうして。
「逃げられただろう。お前ひとりなら、逃げられたんじゃ、ないのか」
「……あんた、誰!!?どうして麦ちゃんと、一緒にいるの!!?」
トカゲの声に、初めてもう一人いることに気づいたらしい。半死半生はお互い様、ばっと男(オカマだけれど)が膝をついて、トカゲを見る。
「今はそんなことは、どうでもいい……お前、どうして逃げなかった……?」
に聞いたところによれば、この男はマネマネの実を食べた悪魔だという。その能力を使えば、この地獄から逃げだすことも、あるいはできたかもしれない。秘密結社の社員をしていたというのなら、その手の知識もあるのだろう。
たった一人、なりふり構わずにすれば、なんとかなかったかもしれないのに。どうしてこの男は戻ってきたのだろうか。
「ダチだからようっ!!!麦ちゃんを必ず迎えに来ると、あちしはあちしにかけて誓った!!マゼランに二人で挑んで勝てる道理はねぇから、だから!!だからあちしは麦ちゃんを置いて逃げたのようっ!!」
その時に、己はもう死んだのだ、とそう、叫ぶ。己に心酔している様子でもなく、義務でもなく、ただ己の、信じる道に従うのだと、そう、言うその声がトカゲにしっかりと届き、こんな状況にもかかわらずおかしくなってしまった。
「ふ……ふ、ふふ、そう、か」
「あんたが誰か知んないけど……!!あちしは麦ちゃんのダチようっ!!」
そういえば、にはSiiという友人がいたけれど、己にはそう呼べる人間がいなかったことにトカゲは今になって気付く。アイスバーグは、確かに親しくしていたけれど、しかし、友人、ではなかった。同じ人間だというのに、と己とのなんと違うことか。ぼんやりと思いながら、ルフィを気遣うボン・クレーの声を聞く。
と違い、トカゲはまだ人間を心底諦めていない。人間というのは面白く、どこまでもどこまでも、価値のあるものだと、そういう概念を捨てていない。だからこそ、今ここで、この、地獄と呼べるインペルダウンの下層部にて、友を助けるためだけに、命を捨てる覚悟でここまできたボン・クレー、それがとても好ましく思えた。
「そうか……お前、卿、よい男、じゃあないか」
「ジョーダンじゃないわようっ!!あちしはオカマ!」
声はまだ元気だが、しかし、身体はもうぼろぼろだ。それでもルフィをぐっと抱き上げる。ルフィの毒はこの極寒地獄で幸いにも凍りついたから、触れただけでこのオカマにまで毒が影響することはない。とはいえ、その、半分裸のような格好。この場所から逃げられるのだろうか。
(さて……おれも、そろそろまずいか)
狼たちを蹴散らす音、しかしそれにも限りがある。自然、だんだん、押されていき、しまいには、どさりとボン・クレーの倒れる音。トカゲは体に力を入れようとあちこちに働きかけるのだけれど、うち捨てられた場所が悪かった。極寒の地、爬虫類の動きは鈍る。というか、冬眠したくなっているらしい。おいこら、てめぇ、とトカゲは腹部に向けて胸中で罵り、しかし、ついにははたり、と、意識を飛ばした。
魔弾の射手
夢を見た。枕もとで小さな女が立っている。赤い着物を着た生き物で、黒い髪。きれいにそろった前髪は月明かりもさしこまぬ部屋の中で黒く光っていた。手を伸ばしてどんな面をしているものなのかと見てやろうとしても体が動かない。面倒臭くなって天井を眺めていると、その耳元で小さな女が歌い始めた。もう時期にお前が死ぬのだと、阿呆な女が滑って頭を打って死ぬのだと、そういうことを歌うのだ。
「ホラーじゃねぇかぁああああっ!!!!!」
ばっ、と身を起こしてトカゲ、とりあえず手元にあった何かをガツンと突っ込み代わりに投げつけた。
「っ……く、は……!!」
「ん?」
てっきり壁か何かに激突したと思ったのに、何かにストライクする感覚。それでトカゲははっとしてパチリ、と眼を開く。
先ほどまで、意識を失うまで己のいただろう極寒地獄、ではない場所。壁と壁の中のような、石畳の上にごろん、と己は寝かされていたらしい。
「……ここが、5、5番地か?」
きょろきょろあたりを見渡して、首を傾げる。すると、トカゲの投げつけた何かがぶちあたってしまったらしい人物、いたたたた、と頭部を押えながら起き上った。
「やれやれ、気がついたか
「うん?なんだ、卿」
上半身を起こしたトカゲ、見上げる男は、妙な格好。ここしばらくの時間インペルダウンにいたせいか、ズタボロな格好に随分見慣れてきてしまっていて、この男の身なりが妙な違和感を覚えてしまう。冬も越せそうなもっさりとしたコートに、クローバー型と言うんですか、という上方、二色にくっきりと分かれているのが何やら面白い。
手配書で見た覚えがある、とトカゲは思い、手を叩いた。
「革命家のイナズマどの。あれだろう、インペルダウンで失踪した、シザー・ハンス」
「私を知っているのか。それなら話は早い。海軍本部の中佐がなぜ麦わらのルフィ、海賊を庇ったのか、その真意を聞くために、ここへ連れてきた」
「麦わらと、その近くにいたオカマはどこだ?無事なのか」
毒で死ぬようなつまらなさは持っていないとは思うが、放っておけば確かに死ねる毒である。だからトカゲも多少は案じている心。そうして問えば、ぐさっ、とトカゲの首にハサミの刃が充てられた。
「質問しているのは此方だ。答えてもらおう、海軍中佐」
容赦なく、トカゲの首の皮が切れる。たらり、と己の血が刃を伝うさまを見つめてトカゲは目を細めた。ここがどこなのか、の推測はある。トカゲとしての知識ではない。だが、どこかの見当があった。だからあまり慌てる心はない。
「このおれに指図をするんじゃあないよ。ふ、ふふ、ふふ、ふ。このおれが聞いているんだ。答えろよ、シザー・ハンス。麦わらのルフィ、およびその友人、ボン・クレーはここにいるのか」
「同じことは二度言わない」
ジョキン、と、ハサミの刃の合さる音。首から耳元に位置を変えられた刃がトカゲの耳を斬り落とした。身に走る痛み、焼けつくような衝動にわずかに眉を寄せて、ぼたりと己の耳の落下した音を聞いたトカゲはさめざめと、顔を動かした。血があふれて肩を濡らす。
だが次の瞬間、落ちた肉片も、トカゲの肩を濡らした血も、何もかもが砂になる。そして元通り、あとは当たり前のように、トカゲの耳が元に戻った。
「……お前は一体」
「ふ、ふふふ、温度も常温、よいころということか。なかなかに焦らしてくれる」
「ン〜〜フッフフフ、お止め、イナズマ。尋問なんてする意味なッシブル!」
驚くイナズマの声と、トカゲの声、それに、バタンと乱暴に開いた扉から現れた人物の言葉が見事に重なった。
「お目覚めね、海軍本部、トカゲ中佐。監視カメラからヴァナタの行動を見させてもらったわ」
どっかりとトカゲの前に腰をおろして、アミタイツに、どこぞのステージ衣装を思い出させる格好の、顔のでかい、妙な生き物。トカゲは素直に「人類か」と聞いてしまった。
「ン〜〜〜、噂どおりの性格の悪さ、ヴァナタの行動は不思議だったけれど、まず一つ答えてあげる。麦わらのコとミスター・2、ボンクレーは無事よ」
「そうか。麦わらはマゼランどのの毒を食らった。どうこうしないといずれ死ぬんだがな」
「そこよ、ヴァタシが気になるのは。ヴァナタも同じくらい毒を浴びていた。けれど今こうして当たり前のように何もかもが元通りになっている、ヴァナタはいったい何なのか、それが気になる」
まっすぐにこちらを見つめてくる目。トカゲはふん、と鼻を鳴らした。こうもあっさり会えるものとは思っていなかったが、話は早い。
「エンポリオ・イワンコフだな。が卿に会えと言っていた。卿は革命軍、あの男の同志なのだろう?」
ぴくりと、イワンコフの眉が動いた。
オカマバッカ王国の女王にして、革命軍の幹部。その能力はホルホルの実を食べた体内ホルモンを自在に操るもの。インペルダウンにとっ捕まり、そして袖引きによって失踪したというのを、は先日作らせたリストで確認したらしい。
インペルダウン内では死んだとされている囚人だが、悪魔の能力者の生死はにならわかるもの。まだ死んでないと判じて、ならどこにいるのかと、はすぐに考えた。それで、今回のこの、トカゲの奇行である。
「卿に会うためにマゼランの毒を食らってみた。元海軍本部のこのおれが死にかけ身動きが取れない状態でインペルダウンに放り込まれていたら、卿は情報を絞り取るために必ずおれの袖を引くとわかっていたからな」
「それで、解毒はどうやったの?」
「仕掛けはこれだ」
ぺろり、とトカゲは己の服をめくって見せた。羞恥など抱くのはずいぶん昔のこと。腹部をあらわにして見せると、イワンコフが目を開いた。
「その蜥蜴の刺青は、の、あの世界の敵のものじゃないの」
毒でいささか服は熔けたが、それ以外はすっかり元通り、まっしろいトカゲの、球のような肌。その腹の上に伸びているのは、尾のないトカゲだ。
「さすがは革命軍、ご存じか。これは、これこが不老不死の秘術。ウンケのつがいになることで、どんな傷だろうと回復する。から譲り受けたんだよ」
普通はこうして気安く譲れるものではないのだが、トカゲはその身に全治の樹を封じている。地平線を超えたところで体は同じ。魔女の素養は失ったが、資格は残っている。ただの死体よりはウンケの宿主になる確率があったのだ。
「魔術師の目覚めが近い……そういうことね?」
確認の形となった言葉に、トカゲはゆっくりと頷いた。さすがは革命軍どの、すでにがパンドラの身代わりでしかないことくらいは承知しているのか。トカゲはゆっくりと立ち上がって、イワンコフを見下ろす。
「だから、おれがここにいる。おれが、あの子の代わりになる。世をさまよう魔女になる。そのために、ウンケを譲り受けた。そのために、今こうして卿と接触をはかっている」
手を伸ばした。イナズマが警戒するような姿勢を見せたが、あっさりとイワンコフはそのトカゲの手を取る。
「ヴァナーダが“”になるというのね。ン〜フッフフフフ、おもしろいわ。麦わらボーイたちの治療はもうとっくに始めている。それでもまだまだ時間はかかる。少し、話をしましょうか」
Fin
(だから、あと少し)