本気の嘘をついてみよう
ごろんとベッドに横たわりながら、トカゲ、ぼうっと天井を見上げた。天井に吊るされたランプがゆらりと揺れる。このインペルダウン、海底の牢獄。時折こういった地響きが起きるらしい。地上よりも深い深い場所、この世の人の行ける場所の中では最下層になるのかと、それはトカゲの知識の範囲では断言できない。空島があったように、ひょっとすると地底帝国なんていうのも、あるかもしれない。(たとえば海の底の、マントルのうねる場所よりは上部に、ひょっとするとあるかもしれない)まぁ、今はそんな誇大妄想はどうでもいいとして。ふわり、とトカゲは欠伸をした。眠い、というのは正直なところ。それでこのまま眠ってしまおうかとも思うが、しかし、その前にまだあれこれとやらねばならないこともある。
普段、飄々としすぎて自由奔放、ドSで我が道を行くノリノリなパン子さん☆のイメージ強いトカゲであるけれど、しかし、道理はしっかり守っている律儀なところもあるのだ。だからして、たとえ傲慢・尊大を己のものとしていても、それでも、己のやるべきことを放棄はせぬ。
むくりと、トカゲは体を起こし、ベッドに座ったまま壁に背をつけると、銃を抜き取り、弾の装填。この弾丸はただの鉛の塊であるのだが、から蜥蜴のウンケの刺青を移植された時にある程度の魔力も譲り受けた。で、あれば今の己は(もともとの魔力はなくとも)多少なりとも魔力・魔弾を扱うことができるようになっているはずである。
トカゲの使う“悪意の弾丸”はもともと僅かな魔力を弾に込めることで強力な武器とするものである。譲り受けた魔力はにとっては「僅かな」魔力でも、元の世界にいたころのトカゲの魔力と同等のほどはある。
球を一発手に取り、ぎゅっと握りしめながらぶつぶつと呟き悪意を込める。
「“私の声は遠く、高く、空へと続いていくだろう。その凍りついた喉元は霜を帯び、大地に下ろした私の足から伝う根を眠らせる。何もかもが捩じれて往くだけの境界線上に私の手が伸びていく。洪水で沈んだ私の眼球だけが、いつまでも変らず彼女の死に逝く様を眺めている。悪意と正義の燃え尽きた灰を褥とし、私は、世界に報復する”」
そしてふわり、と手のひらから闇が滲んだ。トカゲはうっすらと目を細めて、そっと、空いていた方の手を悪意に満ちた己の手に重ねた。重なる手と手、己の肉付きの薄い手が小さくカタカタと震えているのを見止めてトカゲは可笑しくなってしまった。
おびえている。この、己が。
先ほどイワンコフの前では傲慢に、尊大に振る舞いそれを当然と己を取り戻していたのに、しかし、こうしてたった一人きりになって、そして、突き付けられると、もうどうしようもなくなる。
解っていたことだ。いや、に“それ”を頼まれる前から、こうなるだろうとういう覚悟はあって、トカゲは地平線越えなどとい荒技をした。わかって、いたのだ。もう己が元の世界に戻ることはできないと。あまりに長くこちらの世界にいて、こちらの世界に居場所を作り、様々な人間、生き物に己の存在を知られてしまった。もう立派に、こちらの世界の生き物、になりその気配が濃厚になった己。
そしての力の一部を受け継ぎ、再度、こちらの世界の魔女となった。
(おれは、もう戻れない)
脳裏に浮かぶ、いつも困ったように眉を寄せながら、それでも歩くときはこちらに手を伸ばしてくれた男。かわいらしいなぁ、といつもいつも、上目線でからかってやっていたけれど、しかし、トカゲをいつだって気遣い、想い、トカゲが安心する態度を崩さなかった、男。
もう、会えない。
ぎゅっと、トカゲは目を伏せて握りしめた両手を胸に当てた。悔いは、ない。こうなるとわかって、承知で、この世界に来た。
己には、どうしても解決させたい“問題”があったのだ。ふと日常のなかで浮かんだ疑問。なぜ、そうなのかと一度不思議に思えば、アビスの身、答えに、いや、可能性に行きつくまでに時間はかからなかった。
(おれは、赤犬をどうとも思っていなかった。けれどおれはあの男に従い、印を刻まれ、それを当然としていた。だが、おれは、そして赤犬は、互いなどいなくても全く問題がないとさえ感じていたのだ)
こちらの世界ののように、もともとトカゲも、赤犬サカズキの元にいた。サカズキの保護を受け、そして暴力を受けていた。だが、そこにどんな感情があるかといえば、トカゲにはさっぱりわからないのだ。なぜ、どうして、自分はサカズキに縛られていたのだろう。なぜ、サカズキだったのだろう。さっぱり、思い当たらなかったのだ。
ドレークを想ってからはその違和感が顕著になった。ドレークを愛しているという心がはっきりと形になるにつれ、尚更「なぜサカズキと一緒にいるのだろうか」とそればかりが気になる。
そして、その答えはあっさりとわかったのだ。
アビスは深淵。世界を司る樹の聳え立つ床である。知らず異世界の情報とて共有しているのだ。トカゲは気づいた。赤犬を「特別」だと思う心は、己のものではない。いや、もっと正確にいえば、そうではない。トカゲの世界は、その「赤犬を特別だと思う“”のいる世界」から派生したものではないのか。すべての世界はだれかの夢である。トカゲの(元の世界ではという名前の、赤毛の女)世界はトカゲの夢、その夢は、別の“”の世界から芽吹いた世界なのではないか、と、そう、推測したのだ。
であれば、それは別に大した問題ではないにしても、しかし、赤犬を特別だと思う、をどうにかしなければならなくなった。
ドレークを、己の世界の赤旗・ディエス・ドレークを、己が心の底から「ただ一人のひと」と選ぶには、意識の根底にある「赤犬を特別だと思う己」を消し去らねばならない。そのためには、その世界の原点、トカゲの世界のもととなった“”の世界で、の願いをかなえなければならなかった。
(中途半端な心で、赤旗を嫁にはできん)
そういう決意で、あっさりと、本当に、あっさりとは、こちらの世界に来て、そして“トカゲ”になったのである。
戻れないとわかっていても。
◆
十時間後。
◆
すっきり快眠、さっぱりとトカゲは欠伸ひとつで目覚めもよくベッドから降りた。そしてそのまま騒ぎ声の大きいホールに戻れば、見覚えのある後姿。
「よぉ、ミスター2、ボン・クレー」
軽く手を上げてその背に呼びかけ、どっかりと、トカゲはソファの背に靠れかかった。
「その顔じゃ、ここが何処で何がどうなっているのか、程度のご説明は頂けたようだな」
「……アンタ、レベル5にいた海兵」
「トカゲだ。中佐なんてやっていたが、先刻辞めた。まぁこのおれの素敵な個人情報はどうでもいいんだよ。卿、ルフィを助けようと逃げられた道を戻るなんて、中々できることじゃあないぞ」
あちこち包帯を巻いてはいるが、命に別条はないだろう様子。トカゲはぽんぽん、と子供扱いするように頭を叩き、ひょいっとソファの背を飛び越えると、その隣に座った。
「ン〜フッフッフ、ヴァナータも目覚めたのネ。トカゲ中佐」
「だから元だ、と言っている。それでイワンコフ、どこまで説明したんだ?」
ボン・クレーの目の前に座っていた大きな体のオカマ王。むしゃりむしゃりと食事中の様子。トカゲはテーブルの上の瓶を一本手にとって歯で王冠を開けた。あまり好む開け方ではないが、まぁ仕方ない。それでごくりごくりと傾け喉を潤す。中身を確認しなかったが、酒のたぐいではなくてオレンジジュース。なかなかかわいらしいものもあるのだ。
「おおまかなことはね。ちょうど麦わらボーイの目的の話もしていたところよ。白ヒゲ海賊団二番隊隊長、ポートガス・D・エースの身を助けるためにこんなところまでやってきた、ってね」
バリバリと骨付き肉の骨まで見事に食していくイワンコフ。それは突っ込みを入れた方がいいのだろうかと一瞬トカゲは考えて、面倒なので放置した。
「まぁ、けれどそれはもう諦めなくちゃねぇ。兄よりもまず自分の命、そうでしょう?」
テーブルの上に乗った魚(丸ごと)が次々とイワンコフの大きな口に飲み込まれバリバリと砕かれて消えていく。そんなに立派に栄養を取っているのに、そのやせ細ったような頬は、あれか、能力ゆえなのか、どうでもいいことをぼんやりと、トカゲは考えてしまいながら、ふぅん、と適当に相槌を打った。
先ほど時計を確認したら、もう夜のゼロ時を回っているところ。エースの処刑は今日の午後3時。おそらくは朝のうちに海軍本部へ連行される戦艦に引き渡されるのだろう。
その「引き渡し」までがインペルダウンのお仕事。となれば、それはあと7、8時間後ということだろう。インペルダウンにて、昼も夜もあまり関係のないもの。朝早いからといって、深夜寝静まることはない。今も十分警戒態勢、その上あのマゼランが、そうやすやすと攻略されてくれるようなかわいげをお持ちだとはトカゲ、思ってもいない。
エースを海軍本部に連れて行かれるまでに何とかしたいのなら、あと7、8時間以内になんとかしなければならない。
「麦わらボーイの解毒治療はあと約2日。それでももし助かったとしても、体力の回復に体は3日間寝込む……!そういうものよ」
「目覚めたときには全て終わっている、と?」
今度はサクサクとどれっしんぐをたっぷりサラダを食べ始めたイワンコフ。肉・魚・野菜、とやはり栄養はばっちりである。しかし、ドレッシングを丸飲みするのはいかがなものか。
ばんっ、とボン・クレーがテーブルを叩いた。上に乗った料理の皿が揺れる。
「その前に……!!麦ちゃんの体は、あんな調子で……三日も持つの!!?」
もっともな疑問である。トカゲはまだルフィのその有様をじっくりと眼で見たわけではないが、今も耳をすましてみれば、この騒がしい華やいだ音の中に聞こえる、この世のものとは思えぬ呻き声。トカゲはそっと息を吐いて瓶をテーブルに戻した。
「イワンコフ、説明しなかったのか?」
「したわよ。持たないのが普通、持てば奇跡、だってね」
先ほどはよほど強い口調でそう言ったのだろう。イワンコフのあっさりとした言葉にボン・クレーががっくりと肩を落とす。が、しかしそうかと思えば急にばっと、トカゲの肩を押えて、顔を覗き込んでくる。
「アナタ!!そうよ!!あんたなんで無事なの!!?麦ちゃんとおんなじくらい毒浴びてたじゃない!!どーしてあんたはケロっとしてるのよぅ!!」
がくがくと体を揺さぶられ、その必至な様子。
イワンコフの能力、その代償やら何やらはお説教を受けて納得承知したらしいのだが、しかし、それでも友の苦しむ様子、何かまだ手があるのならと必死に探るよう。トカゲはガクガクと頭を揺らしながら「あー、ちょっと待て。おれそういう振動苦手」と軽く手を上げる。嘘ではない。ドSは基本的に打たれ弱い。ジェットコースターなんてとても苦手という一面、トカゲはしっかり持っている。まぁ、それはどうでもいい。
「おれが無事なのは、ほら、あれだ。パン子さんクオリティ?」
「さっぱりわかんないわよぅ!!何ソレ!?何なのよぅ!!解毒の術があるなら教えなさいよぅ!!」
トカゲとしては正直に答えてみたのだが、納得してくれなかったらしい。面倒くさいのでどうしようかと一瞬考え、トカゲ、あ、と手を叩いた。
「おれって最強〜」
「余計わかんないわよ!!何あんたふざけてんの!!?」
たちの悪いことに、心の底からまじめな言葉である。
だがここで蜥蜴の刺青のことやらのことをこの男に(オカマに)語って聞かせたところでどうなるのか。ウンケの尾の一部でもルフィに移植すれば解毒ができる、ということはない。それができるのならトカゲだってさっさとやっている。
何しろこのままルフィが目覚めなければ、それはトカゲにも都合が悪い。寝ている間に三日、四日経ってしまって全てが終わってました★パンドラさんもさんもいろいろありました★なんていう展開はごめんである。当事者になるために、ルフィにはここですぐにでも目覚めていただかなければならない。
だが現状、ルフィを救うにはイワンコフの能力、そしてルフィ自身の気力にかけるしかないのである。
もそうだったが、基本的に、やトカゲは、世界に影響を与えられる生き物ではない。この世界が“何か”によって筋を与えられそれゆえに続けられる“物語”であるのなら、その世界の“夢を見ている主”である己やが(たとえ世界の王であろうと)物語の流れを変える、影響を与えることはできないのだ。
それが道理、である。そこまでが理解しているのか、それはトカゲにはわからないが、少なくとも地平線を越えて違う世界、しかし同じ世界に来たトカゲにはよくわかること。
同じく軽薄な存在であるやパンドラ、ノア、にトカゲが影響、あるいは何かをすることができても、この世界にいて当然とされる生き物(たとえばルフィなど)を殺したり、助けたり、は出来ぬのだ。
「ふざけてなどいない。おれはおれ、ルフィはルフィ、とそういうわけだ。おれでは助けられないからイワンコフがいる。卿もルフィを助けられないからイワンコフを捜した。違うか」
ぐっと、ボン・クレーが押し黙った。トカゲはゆっくりと息を吐いて、足を組み直す。
「……あちし……麦ちゃんの部屋にいる」
「うん?」
「あちし、諦めない!!麦ちゃんが生きることを、諦めない!!」
行ってそのまま周囲の声も聞かずにずかずかと、麦わらのルフィのいるだろう部屋まで走って行ってしまった。それを眺めてトカゲはイワンコフに視線を戻す。
先ほどまでの乱暴なテーブルマナーが嘘のように、きゅっとお上品に真白いナプキンで口元を拭うイワンコフ。じぃっとボン・クレーの消えた扉を眺めていた。
Fin