瞼の裏に浮かんでくる、霞み掛った古い井戸の中の、石壁。何度も何度も何度も何度も何度も頭を打ち付けて少しでも罅割れないかとそれだけを待った。片腕は妹を抱きしめるために使えず、空いた右の手の指はもう随分前に、壁を登ろうと僅かな隙間に爪を引っ掛け、そして、剥がれた。既に右手は使い物にならず、ぶらりとただ肩から下がるだけの始終。いったいどれくらいの時間がたったのかもわからない。井戸の中。女の子宮の中に似ていると、時折煩うように思った。雨が降るたびに水嵩は増していくのに、それでも上の、ほんの小さな光が届くことはない。

(泣き叫んでいた妹の声が聞こえなくなってどれくらい経つのか。妹の顔に蟲が湧き、腐っていく。それが恐ろしくて水につけても、呼吸が苦しいと泣く声が響くことはない)

「どうした?」

扉に手をかけたティーチ、突然立ち止まったパンドラ・を振り返り声をかける。先ほどまで半分寝起きのような眼をしていた、美貌の女性、その赤い目を伏してゆるやかに首を振る。

「何も」

はっきりとした言葉、己にでも言い聞かせるように再度、女は呟いた。

「何も問題はありません」




 


音のない大地に





 

バタバタとこちらとあちらをせわしなく行き来する、曰く「新人類」らしい連中の姿をぼんやり眺め、トカゲは首を傾げた。

ルフィの呻く声が聞こえなくなった。それで「死んだか?」と思う心はトカゲにはない。ゴムの悪魔の声は未だ響いてる。それではついに命を取り留めたのかと、それを判じてふわり、と欠伸をひとつ。ごろん、と横になったソファの上から、キャンディーたちが両手に抱えきれぬほどの料理を運んでいく様子を見ている。

それでまぁ、ある程度の予想は立つのだけれど、しっかり確認させて置きたい事もある。トカゲは手頃なビール瓶を手にとって、丁度目の前を通り過ぎようとしていたウサギのかぶり物をした男の、頭に瓶を投げつけた。

「ぶべっ!!!?」
「よぉ、ラビット。それでルフィは気がついたんだな?」
「ふざけんな!!いきなり人に酒ぶっかけて何だその態度は!!」

堂々とソファに寝転がりふんぞり返る以上の傲慢さ。指摘されてトカゲは「おや」と以外そうだと言わんばかりの顔をしてみせる。

「細かいことを気にするな」

で?ルフィはどうなんだ、と相手の質問をさっくり切り捨て再度問う。それでぐっと兎のかぶり物が何か言いたそうな顔をしたけれど、ぽん、と、その兎の背を誰かが叩いた。

「私が話をしよう。君はその食事をルフィ君のところへ」
「おや、南の空の稲妻どの。卿に説明していただけるとは光栄だ」

ほっと兎のかぶり物の男が息を吐き、そしてすたこらさっさとルフィの元へ駆けて行った。それを見送ってから、現れた二色の目立つ男、南の海の革命家イナズマは、トカゲの前に座った。今はそのトレードマークとも言えるワイングラスがない。その居住いがすっかり礼儀作法に則ったもので、トカゲは、こちらも礼儀として身を起こす。

「ルフィ君はひとまずは毒の打ち消しには成功したようだ。今はひたすら栄養補給に走っている」
「ふふ、だろうな。ここの食糧が尽きないか心配だが」
「常に一ヶ月分の蓄えはある。巨人族ならともかく人間の胃袋程度なら問題あるまい」

いや、ルフィの胃袋を人間レベルで判じるのは人類に失礼だとトカゲは胸中で思いコロコロと笑った。何しろ麦わらのルフィの食欲と言ったら、張れるのはジュエリー・ボニーかSiiかという位だ。

まぁ別にここの食糧が尽きようがなんだろうがトカゲには興味もないこと。大きく伸びをしてから足を組み替え、肘をついてイナズマを見上げる。

「それで?このおれとサシで話をしようというからには何か早急に解いて置きたい疑問があるんだろう?」

ここに最初に来た時にあれこれイナズマの問いを無視してきたトカゲではあるが、こうも礼儀正しく場を整えられて無碍には出来ぬ。そういう己の性質をこの男が承知でやっているのか、それは知らないが、知っていての行動でも、知らぬからこその行動でも、どちらでも面白い。

「“ゲート”がこのインペルダウンにもあるのか」
「詳しいな。そう直接聞かれるとはさすがに思っていなかった」

さすが革命家どの、と言うとイナズマのこめかみが小さく動いた。別段こちら、からかうつもりでそう言ったわけでもない。ため息をひとつ吐いて、トカゲはテーブルの上のカラのグラスに並々とワインを注いでいく。ただのグラス、ぼたぼたと注ぐたびに遠慮なく気泡が入り込み、丹念に寝かされていたワインが乱暴な振動、あっさりと酸化して本来のうまみが消えていくのが目で見てもわかるよう。愛好家でもあるイナズマはそのあまりにも粗雑な扱いに何か言いたそうではあったが、トカゲ、男が引き結んだ唇から言葉が漏れる前に、そのグラスをパシン、と指ではじき倒した。

食べ残しやら何やらが乗ったテーブルにワインがこぼれ、そしてテーブルの端に伝い下にたれる。ぽたぽたと流れていく赤ワイン、いったい何をしているのだとイナズマが不審に思うとほぼ同時に、トカゲの白い指先がテーブルの上のワインを引っ張った。

そのままトカゲがひょいっと指を宙に上げれば、ワインの液体も一緒になって付いてくる。器用にトカゲは指を動かして、奇妙な形を描く。三角形が二つ、上下に重なり合い、周囲を二重の円で囲い込んだもの。その隙間にはイナズマには読めぬ文字で何かが記されていた。

「この地獄、このインペルダウンの「本当の最下層」に、確かに“門”はあるそうだ。だが、そこにたどりつくのは“生き物”では不可能だよ」
「君なら行けるのか」

それには答えず、トカゲは乱暴にテーブルの上のものを薙ぎ払い開けると、何もなくなった机の上にワインの魔方陣を置く。ただの液体がわずかに発光して揺れる様。ごくり、とイナズマの喉が鳴った。

「説得されてくれるような男じゃあないだろう?ふふ、これもある意味“門”の一つだ。お前がこれに手を差し入れて沈めるのなら、卿らの言う、この場所の“門”も扱える」
「ただのワインで描いただけのものじゃないのか」
「おい、今更“ただの”で終われるものがあるとか思っているのか?卿」

今度は素直に笑って、トカゲは魔方陣を描くときに使ったワインの残りを飲み干す。

「“ただの”人間“ただの海”“ただの海賊”“ただの海兵”そんなものが存在する時代は終わったよ。卿だって、“ただのもの”を切り離して紙のように扱える。今更つまらぬことを言わないでくれ」

さぁどうするのだと、トカゲの問いかけ。イナズマはコートに隠れがちになった手を出して、そっと魔方陣に触れた。だがぺたり、と、すぐにテーブルの感触があるだけ。ただ少し発光している、ワインが描いた魔方陣。じわりとテーブルの上に染みるだけである。

「残念。卿には無理だな」
「……どんな資格があれば扱える?」
「それを知ってどうする。革命家」
「世界中に点在する“ゲート”を使えれば、情報の伝達や移動が有利になる。革命軍にとって、何よりも重視される能力だ」
「言っておくが、“ゲート”を扱うには“魔女の悪意”がいる。“人が過ちを繰り返すのをただ黙って眺めている”それが魔女の悪意というものだ。世界をどうにかしたい、と思う心がある連中は一生涯、扱うのは不可能だな」

言い切って、トカゲはぽん、と己の手を魔方陣につけた。どっぷり、水か何かに沈むように手が魔方陣に飲み込まれる。

「つまり、人の身で千年の知恵をどうこうするのはまず不可能だ。そんな無駄な力を追い求めるより、卿らにはするべきことがあるだろう」
「……ではもう一つ確認を」
「うん?」
「君は味方か。トカゲ・元中佐」

深いため息。トカゲは魔方陣から手を放した。指先が離れると、それは途端霧散する。たった一度きりの簡易的なものだ。それは当然。

ゆっくりとイナズマを眺める。確か以前見た時は女だったが、今はこうして男の身。どちらがどちら、というのはトカゲには興味はない。が、問われた言葉には答える興味があった。

「おれはいつだって卿ら革命家や歴史学者が嫌いだ」
「……」
「卿らはいつも既存のものを平然と踏み荒らし、破壊していく。“今”の何が悪いのか。“正義”のほころびなど見つけてどうするのか。何も知らぬ“一般人”の知ったことか?」

はどうだか知らないが、しかし、トカゲ、別の世界でしっかり“世界の敵”として長年行き、そして何もかもから憎まれ追われてきた生き物は心の底から、革命家、あるいは歴史家、を嫌っている。

いや、どこぞで王により民が虐げられている国があり、その暴君を打ち砕くのなら構わない。どうしようもない法があり、それに意を唱えるのなら構わない。だが、それを大声、大きな意思として世に広めようとするその心がトカゲには気に入らなかった。

「小さな革命では意味がない。大元を正さねば何の意味もない」
「そのために“何の関係もない一般人”の人生、生活、命が失われても、か?」
「戦争だ。ある程度の犠牲もないなど、そんなことができるのは神か悪魔だけだ」
「卿らは“世界を革命”して、人を救いたいのだろう?失われていく命は、その救うべき対象には含まれないのか」

ダンッ、と、トカゲが乱暴に置いたグラスがテーブルを割った。

「卿らが“世界を革命”して、“救われる人間”“救われない人間”それは、どんな違いがある」

トカゲはまだこの世界のドラゴンに会ったことはない。だが元の世界では何度か邂逅している。正直、中々よくできた人間だ。犠牲も何もかも承知。己が億の屍の上を歩き、仲間の死の先にあるのがただの“一つの結果”だとしても構わぬ。「だからこそ、そこにたどりつかねばならんのだ」と承知の男。ぼんやりと、赤旗にもあれくらいの覚悟はあるのかと思ったことはあるが、まぁ、今はそんな話はどうでもいい。

極端な話をすれば、億の人間が死のうが、兆の命が消えようが、それはトカゲの知ったことでもない。だが、“間違った正義が行われているのなら、それを正しいものが正さねばならない”と掲げる連中が気に入らないのだ。

いったい何を判じて、己らを“正しい”と言うのか。

今回の歴史、たまたま800年前に滅んだ王国の歴史が一切「なかったこと」になっているから特別視されているけれど、長い歴史を見れば「間違った政府」が間違った正義を行い続けたことなど、何度あるのだろう。

その度のことを持ち出して「昔、間違っていたから、今あるこれは間違っている」とぎゃあぎゃあ騒いで、何の意味があるのだろう。正直、阿呆か何だ、と言いたい。

「卿らがいまの“政府を倒そう”だなんてしているとな。ただの一般人はそれが正しいことかどうかなど、知らない。知ったところで何だ?今の生活が変えられる。守ってきた家族が危険になるかもしれない。そんな変化など、必要か」
「では君は。何もかも、世界に何が起きたかを知りながら、今の政府が一体“何を”したのか知っていながら、今のこの状態がいかに歪んだことかを知りながら、それでも何もしない、ただ現状維持を望むのか」
「あぁ」

短く答えれば、ザシュッ、とトカゲのソファの背の綿が出た。割れたテーブルに片足をかけた、イナズマが変化させた手でトカゲの真横を貫いている。

「だから、君や、は、魔女なのだ」
「……」
「“何でもできる”けれど“何もしない”など、人間のすることではない。支払う代償はわかっている。それでも我々は前に進む。諦めることはない。犠牲も、裏切りも、絶望も、わかっている。私たちによって無関係な人々が苦しむことも、死ぬことも、壊れてしまうことも、わかっている。それでも、私は、」

ぐっと、イナズマの刃がトカゲの首を捕えた。そのままゆっくり力を入れて刃が合わさればこの細首、容易く切断。それでもトカゲは眉ひとつ動かさず、じっと男を見つめた。

イナズマが唇を噛み締める。そして何か、これまでこらえていたものを吐き出すような、小さな声。だが、揺らがぬ。決意のようにも聞こえる、声。

「私は世界を革命する」

トカゲはぐいっと、腕を伸ばしてイナズマの蝶ネクタイを引くと、そのまま乱暴に、その唇に口付けた。性的な意味のあるものではない。軽くかすめる程度のもの。すぐに身を放し、自分の首に突き付けられた鋏をトントンと叩く。

「このおれの目の前でその言葉を言ったのは卿で二人目。良い根性をしている」

小さく口元だけで笑い、トカゲはするりと身を動かして鋏の呪縛から出る。一瞬唖然としたイナズマだったが、すぐに気を取り直し、立ち上がったトカゲの腕を掴む。

「君は敵なのか」
「どちらでも好きな方にしておいてくれ。おれは“あっちらはこちらとは違う”だなんて決まり切った戦争に巻き込まれるのは、面倒だ」

言って随分とボロボロになった帽子をかぶる。ルフィが復活したのなら、このままエースを助けに上に行くことになるのだが、しかし、そろそろこのズタボロの格好を何とかしたいものだ。まぁ、ここでそうわがままも言えないからなぁ、などと白々しく今更!?なことを思いながら、ルフィのいる方へ足を向ける。

「さぁ、行くぞ。シザー・ハンス。性別なんぞない卿のこと、両手の鋏で愛しい女を抱けない、なんて葛藤はないだろうが、ここはご立派な殿方としてこのおれをエスコートしてくれ」

手を差し出す、鋏の男、溜息をひとつ吐いてから、二色のサングラスを一度持ち上げて、トカゲの手を取った。

 


Fin