掌にひらひらと浮かびあがった蝶が揺らめきすぅっとかき消える。青と赤の程よく混じり合った色をしたその奇妙なもの。炎の揺らめきに似ているような気がしてイナズマはサングラスの奥で目を細める。
イワンコフの急な出立命令により現在レベル5、5番地のてんやわんやの大騒動。イナズマとて盗聴用の電伝虫やら何やから情報収集。エースの出港時刻はもう間もなく。では早々にレベル6に向かい彼を救出しなければ、海軍本部へ連れて行かれてしまうと、そういう事態の現在。倒れかけた麦わらのルフィはイワンコフのテンションホルモンの投与によりかろうじての復活をとげた。
「ふ、ふふふ、そんなに見つめるんじゃあないよ。卿が子女の身なら、押し倒すぞ?」
「……君は敵か、それとも味方か、判断がつかない。正体の定まらないものを、我々は受け入れるわけにはいかない」
これから起こることは、大騒動。ひとつとて己らに有利なことはないもの。それにこの女という危ういものを加えることはできない。
チョキン、と、ハサミを構える。脅しではなく、本気の殺気。今このあわただしい状況の中でこの女と正真正銘の死闘を繰り広げる時間はないとわかってはいるけれど、しかし、これからの己らの行動に、この女を追随させる方がリスクがある。
「ここでおれを殺すのか?何のために?何の意味がある」
「君のような生き物が死に意味を求めるとは思えない。ただ死んでくれ。犬のように、豚のように死んでくれないか」
こうしてイナズマがトカゲとこういった話をするのは、これで三度目。その二度目ははぐらかされ途方もなく置き去りにされたような、そんなものだった。だが今ははっきりとイナズマは引く気がない。
ばたばたと騒々しいあたり。トカゲがぼろぼろになった衣服の前を合わせて簡単な見かけをつくろいながら、ふん、と鼻を鳴らす。そしてひょいっと腕を振れば、その手には緑色にきらきら光るワインの瓶が一本。コルクを抜かれた状態で手に現れる。そしてそのまま瓶をイナズマに向けてきた。イナズマは何も行動を起こさない。ただ眉を寄せてじっとトカゲを見る。何を考えているのかさっぱりわからぬトカゲという生き物。イナズマの殺気を受けても飄々と受け流し、そのままポタポタを床にワインを足らす。
先ほどテーブルの上で見たものとよく似た円。
「おれを今ここで“信じる”と言うのなら、おれはお前の望みをかなえてやろう。エースを救出したいというのなら、おれがここから連れてくる。さぁ、どうする、切り裂きジャック」
淡い光を発する“門”は魔女だけが行き来をできる、と、その言葉をイナズマは忘れていない。たとえここでトカゲを“信じて”エース救出を助けたところで、では、どう連れもどるのか。たった一人でトカゲがレベル6に向かい、マゼランや他の獄卒たちをどうにかすることができるのか。
それらをすべて踏まえた上で、ここでトカゲがイナズマに問うているのだ“信じるのか”と。
それもおかしな話。イナズマはトカゲを味方だとは思えない。敵だろうと推定してこうして殺意を向けている。だが、今この女はこうして己に手を差し伸べようとしている。それが、イナズマには解せず、眉をよせ、そして、ハサミを床に向け切り裂いた。
「言ったはずだ。私は世界を革命する。魔女の手は、借りない」
◆
あれこれとの準備のために去ったイナズマの背を眺め、トカゲは樽に腰かけたままぼんやりと、己の手のひらを眺めた。
(やはり、駄目か)
己が世界に関与することは、できないのか。この世界はだれかの夢だ。誰の、それはの夢なのだろう。だが、だけの夢、ではない。様々な複合体、ではある。だがその入れ物、この世界の基盤となったものに、この自分は影響を与えることができないらしい。
解っていたことだが、こうして再度の目の当たりはなかなかに応える。
単純な話だ。今ここで己がエースの元にひょいっと行って、空気も時代の流れも読まずルフィのもとへお連れする。誰の意見も無視して、とりあえず二人をフーシャ村にでも送り届けてしまえばどうなるのか。
もリシュファも、海賊王もワンピースも、何もかも関係ない世界になるのだろうか。いや、違う。そんなことはできないのだ。トカゲがそうしようと思って何かをしようとしても、できない。
先ほどイナズマに向けた言葉に嘘はないが、しかし、けして肯定されぬも分かっていた。あそこで己が門をくぐったところで、エースの元には行けなかっただろう。行けないようになっている。あるいは、何か、己が流れを変えようとするだけ、押し戻そうとする力が働く。
それが、この夢の世界というものらしい。
息を一つはいて眼帯に隠れた眼球を想う。と、視界が曇った。顔を上げれば大きな顔のイワンコフ、こちらを見下ろして何か思案する様子。
「何だ?ヘヴィメタル・クィーン」
「ヴァナタ、男になる気はなッシブル?」
男っていうか、ニューカマー!と奇妙な動作で言い直されて、トカゲ、これはもう久しぶり間の抜けた顔をしてしまい、唖然と目を丸くする。
「なんで?」
「ン〜フッフフフ、どうせ止めてもついてくる気でしょう?だったら戦力になってもらった方が好都合!だけどその細腕じゃ、いくら海軍本部の中佐といったって、足手まといよ」
まぁ、事実である。もしかり、のことだが、基本的に魔女の身体能力は極端に低い。と比べれば、トカゲはまだ体格に恵まれているが、しかし正真正銘の海軍本部将校ほどの実力があるか、と言われれば笑ってごまかしたいところ。モモンガ中将はトカゲの実力を買っていたが、それでもインペルダウンで大騒動を起こして戦力の一つになれるか、と言われれば少々心もとないものだ。
なるほどイワンコフの能力で男の身になれば、今よりは強くなるだろう。だがしかし、トカゲは緩やかに首を振った。
「ありえないな。このおれが男に?ふ、ふふ、ふふふ」
「性別なんてどうだっていいでしょう?特にヴァナタ、気にするタイプじゃないと思うけど」
「ふふ、そこばかりはこのおれを買いかぶり過ぎだ。おれはか弱い子女の身、それが良いんだよ」
嘘ではない。トカゲは目を細めて笑い、己の赤い髪をかき上げる。男、男、男になれば、まぁ確かに便利だろうことはわかる。いろいろ煩うこともなくなるだろうと、だがしかし、トカゲは女であることに誇りを持っている。
女性ほど面白い生き物はない。少女であったり、女であったり、老婆であったりと、様々な生き物になれる。強さ・もろさ・醜さのさまざま詰まったお買い得セット。たとえイワンコフの能力でまた元に戻れるのだとしても、一度“女”ではなくなってしまったものは、もう元には戻れない。
猫が長靴を履いてしまえば、もうただの猫に戻れぬように、それは決まり切っていることである。
「ふふ、ふ、ふふふ、それになぁ。これ以上このおれの男ぶりが上がってしまったら、殿方連中の立場がなくなるだろう」
軽口ひとつ、それで脳裏に浮かぶ一人の姿にはとりあえず蓋をして置いてぎゅっと手のひらを握りしめる。そのままトン、と床に足をつけてイワンコフを見上げた。
「さぁ、行くんだろう?地獄の釜の底へ」
◆
暗い閉ざされた空間の中で懺悔でもするような蹲る姿勢。周囲にゲリの最中だなんだと笑われていようとそれはマゼランの知ったところでもない。真っ暗、どこまでも暗く湿った場所でじっとして始終。もう時期、火拳のエースの引き渡しとなる。
これが世界を揺り動かす大津波になるということ、理解しておらぬマゼランではない。海軍本部の、いや、政府の意思は何だと、初めてエースが捕らえられ、そしてそのすぐ後に公開処刑が決定したと知らされた時には耳を疑ったものだ。
これほどの大騒動は、滅多にない。このインペルダウンには、地獄には様々な囚人が、海賊たちが封じられている。今回のエースの事態は異例だ。これほど早くの処刑。海賊は、海賊であることがすでに罪であるとはいえ、しかし、罪状をすべて長々と記録することは、“正義”のために必要なこと。海賊王がインペルダウンに運ばれて来たときでさえ、彼の罪状を全て書面に残すまではその処刑は行われなかった。
なぜそれらが“悪”なのかを、“正義”は世に残す。
マゼランの脳裏に、の姿が浮かんだ。
“世の正義”が正義であるために、存在し続けなければならないとされる、小さな少女。レベル6の、“魔女の懺悔室”にもうはいないのだろう。このインペルダウンにいればマゼランが何もかもから彼女を守ることができたかもしれない。いや、たとえ世界から守ることができずとも、この牢獄の長である己は、この牢獄という場所でを守ることはできた。
だがもう、はいない。マゼランには護ることも、助けることもできない。そういうことが分かっていて、だからこそ、マゼランは籠った。
先ほどから己を呼ぶドミノの声がする。行かなければ、と思うが、だがまだもう少し、とも思う。世が荒れる、世界がうねる。それでも、このインペルダウンは揺らがせぬ。いつも、いつでも、世界の終わるその日まで、罪人を封じる場所として存在し続けさせることが、マゼランの使命である。
トイレのドアを開け、眩しい光、ベレー帽にサングラスのドミノ、はっきりと不機嫌とわかる顔で「遅いです!署長!」と告げてくる。
そしてそのままレベル6へのリフトの中へ。揺れながら地獄へ地獄へと降りていく。リフトができる前、ここは螺旋階段だったらしい。上から一本のか細い糸が垂れていて、罪人が手繰り上に行くことができれば無罪放免になると、そういう風習もあった。だがその糸は蜘蛛の糸より細く、泡のように脆いので誰も掴むことができず、だが、いつも空から垂れ、罪人たちにいらぬ希望を与えていた。
リフトが降下していく振動を聞きながら、マゼランはその糸の先を思う。
「正面入り口にて、今朝9時ちょうどに囚人を引き渡します。それまでが私共の使命。守れなければインペルダウンの沽券に関ります」
ゴウンゴウンと響く音。ドミノの凛とした声もよく通り鳴る。周囲に三つ鉾やら長銃を携えた獄卒たちを従えて、マゼラン、もう一度目を伏せた。
リフトが止まる。
そのままゆっくりと最初に降りて、マゼラン、真っすぐにエースの牢へと向かった。明らかにこれから何が起こるのかを承知の囚人たちは息をひそめ、先ほどハンコックが来た時とは比べもつかぬほどの静寂があたりに蔓延る。
傷だらけ、満身創痍の青年を見つめて、マゼランは立ち止まった。数時間前に戦った麦わらのルフィはこの男の弟だという。兄を助けるためにこの地獄へ来、そして死んだ。そしてその兄も、これから世界に殺される。
彼らを殺したのは世界の悪意か、それとも世界の正義なのか。それは、マゼランの判じるところではない。
「ポートガス・D・エース」
名を呼べば、うっすらと青年が目を開けた。看守たちの報告によれば、上で起きていた騒動に何かを予期してるようにしきりに詳細を聞きたがっていたという。まさかこのレベル6にいて弟の存在を聞きつける術があるわけもなし、兄弟の絆か何かで気付いたのかとマゼランは一瞬関心したものだ。
そして騒動がおさまってからは、ひたすら歯を食いしばり、黙り切ってしまったという。それから何の反応もせぬエースを看守が不気味がったが、しかし、こうして名を呼べば顔を上げる。反応する。まだこれは生きているとわかること。
マゼランは緩やかに目を伏せて、ただ一言、告げた。
「これよりお前の身柄を護送する」
Fin